関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像1970 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」36

<<   作成日時 : 2017/07/15 10:58   >>

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 拙ブログでは、最近専ら、三成のことばかりを取り上げていますが、フェイスブックの方では、最近行ったところの写真も含めていろいろなことに触れてします(昨日は祇園祭の山鉾を見に行きました)ので、よろしければ、そちらの方もご覧ください。
https://www.facebook.com/toshiyuki.hisatomi.7

 さて、白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「舜旧記」の8月18日条には、次のような記載があります。
 「早朝に北政所が豊国社へ参詣。大谷吉継についての記載もある」と。
 この記載についての白峰氏の解説は次の通りです。
 「大谷吉継はについては、『刑部少輔、樂人、如常奏之』という記載がある。しかし(豊国社へ)『社参』とは記されていないので、この日(8月18日)、大谷吉継が豊国社へ社参したのではなく、大谷吉継の代理による代参と考えられる。ちなみに、同日、豊国社へ代参した北政所については『社参』と考えられる」と。
 この日は秀吉の命日であり、普通で云えば、三回忌に当たります。しかし、当時の状況では、豊国社で盛大な三回忌祭礼を行うような余裕はありませんでした。全く祭礼が行われなかったのかと云えばそうではなく、それは翌日の諸日記の記述を見ればわかりますが、これについては後述します。
 豊臣公儀方の三成は当時、大垣まで出陣していましたし、諸将も各方面に進出していました。大谷吉継は北国方面軍に配置され、北国に出陣します。敦賀市立博物館発行の図録「大谷吉継 人とことば」の「大谷吉継関連年表」には、慶長5年(1600)「8月、大聖寺まで進軍し、ついで兵をまとめ美濃へ向かう」と記されていますが、おおまかであり、日にちごとの具体的な行動は明らかではありません。ともかく、8月18日の時点では、吉継が上方にいなかったのは確実だと思われます。吉継の母の東殿は、北政所の侍女でしたから、同じ日に北政所も吉継の代理も参詣していることは、両者の近しさがうかがえるような気がします。
 前述したように、7月23日には、宇喜多秀家が豊国社へ参詣し、北政所が祈祷していること、8月2日には、豊国社で毛利輝元が里神楽を執行し、北政所が湯立を行なっていることなどから、奉行衆・毛利など豊臣公儀側と北政所の関係が親密だったことを示しています。
 これも前述したように、三成は7月18日に豊国社に参拝しており、毛利輝元の妻が豊国社で湯立を行なっていますが、この時は北政所は参加しておらず、何らかの事情があったのかもしれません。
 BSで放送された「高島礼子・日本の古都『北政所の秘密』」では、北政所が関ヶ原の戦いの際中立だったという捉え方がされていましたが、それは正しくなく、豊国社への参拝という事実からみても豊臣公儀寄りだったことがわかります。
 

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