関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像1971 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」37

<<   作成日時 : 2017/07/16 10:04   >>

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 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「義演准后日記」の、秀吉の3回忌に当たる8月18日条には、次のような記載があります。
 「豊国大明神の祭礼。豊国社の結縁灌頂を内々に執行するつもりであったが、天下は物騒なので、そのことはなく無念である」と。
 ここでも「天下は物騒」という言い方がされており、特別な祭礼は行われなかったのでしょう。秀吉の命日の翌日の8月19日に、豊国社で大掛かりではないものの、祭礼が行われたことが、各日記に記されています。
 すなわち、「舜旧記」には、「宇喜多秀家の内儀より湯立を執行(豊国社)」、「左大史孝亮記」には、「豊国大明神の前において、神事能があり、二條殿が行き見物した」、「義演准后日記」には、「豊国大明神の祭礼。今日は猿楽があり、諸人が見物した」と。
 また「舜旧記」の8月20日条には、「宇喜多秀家の祈念を申し付けた(豊国社)」という記載があります。
 祭礼を行なうことによって秀吉のことを偲ぶと共に、湯立神事などを執行することによって、豊臣公儀方の勝利を祈念したのでしょう。
 豊国大明神の祭礼で盛大だったのは、七回忌に当たる慶長9年に行なわれたものでした。
 「歴史読本 2014年11月号 特集 大坂の陣と秀頼の実像」の「豊臣秀頼関連年譜」には、慶長9月「8月14日、豊国臨時祭。秀頼・家康がともに、秀吉7周忌法会を盛大に行う(『舜旧記』『義援准后日記』)」と記されています。
 この祭礼について、本坊妙法院門跡発行の「国宝 三十三間堂」には、次のように記されています。
 「慶長9年(1604)の7回忌の祭礼は、臨時として12日から忌日までの7日間行われ、『馬揃え』や町々から風流踊りが繰り出されて、市中をあげ贅を尽くしたものとなり、その華麗な様子は、『豊国祭礼図屏風』に詳しく描写されている」と。]
この前年の慶長8年の7月28日に、豊臣秀頼は家康の孫で秀忠の娘の千姫と結婚し、徳川家と豊臣家は姻戚関係で結ばれていますから、家康が秀頼と共に秀吉の祭礼を執り行ったのは自然のなりゆきでした。この頃には、まだ家康は豊臣家を滅ぼすことを考えていなかったのかもしれません。慶長10年4月12日には秀頼は右大臣に昇進しますが、16日には家康は将軍職から退き、代わって秀忠に将軍宣下が下ります。この時、秀頼にも関白に任じられるのではないかという噂が広がりましたが、結局、それは実現しませんでした。5月10日、淀殿は家康から要請があった秀頼の上洛を拒否しますが、このことも家康には不快に思ったでしょうし、豊臣家をなんとかしなければならないとい思いに駆られたのかもしれません。むろん、家康と秀頼の会見は、慶長16年に実現するのですが。
 

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