関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像1972 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」38

<<   作成日時 : 2017/07/17 10:34   >>

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 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「義演准后日記」の8月21日条には、次のような記載があります。
 「織田信雄は尾張国を本国として(秀頼から)返され遣わす、とのことである。中院通勝・富小路秀直・八条宮智仁親王の(侍臣)大石甚介が、丹後国の拵(和睦)のことについて、大坂(城)の前田玄以のところへ行った、ということである」と。
 この記載についての白峰氏の解説は次の通りです。
 「8月21日の時点で、織田信雄が尾張国を本国として返される、という記載は注目される。このことは、尾張清須城主の福島正則が豊臣公儀(石田・毛利連合政権)から改易されることを意味する。また、豊臣公儀(石田・毛利連合政権)が知行宛行権を行使して尾張国主をすげ替えることを実行しようとした、という点でも重要である。こうした動きが出てきた背景には、8月21日の時点で、福島正則は豊臣公儀に敵対すること(家康に味方して家康方の部将として軍事行動をおこなうこと)が明白になった(決定的になった)からであろう。ちなみに、岐阜城攻城戦は8月23日である」
 「織田信雄はもともと尾張国清須城主であったが天正18年に転封を拒否したため豊臣秀吉から改易され、という経緯があるので、本国として返され遣わす、という記載になったと思われる」と。
 三成は最初、福島正則を味方に取り込めると思っていたことが、8月5日付真田昌幸・信幸・信繁宛書状からわかります。すなわち、「清須の福島正則は目下説得中である。彼が説得に応じたら三河に出陣するつもりであるが、もしうまくいかなかったら伊勢の勢と一緒になって攻撃を加える」と。こういう文面からすれば、三成と正則は犬猿の仲だったとする通説は正しいのか再検討する必要があります。むろん、前年の慶長4年の石田三成襲撃事件の際は、襲撃側に正則も加わっており、三成や奉行衆に遺恨めいたものを持っていたのかもしれませんが、三成が奉行職を解かれて隠居し、襲撃側は何の咎めもなかったという時点で、かなり消えていたのではないでしょうか。それだからこそ、三成は同じ豊臣恩顧の武将のよしみとして、正則が豊臣公儀側に加わってくれると思い、説得を続けたと思われます。小山評定の際、正則が立ち上がって、「軍を引き返して、君側の奸、三成を討つべし」という意味のことを言ったということも通説になっていますが、これは江戸時代の書物に書かれていることであり、一次史料には見えず、そもそも小山評定はなかったとする白峰氏の見解があります。
 もっとも、8月21日の時点では、正則が敵対する意思をはっきり示したので、豊臣公儀方は正則を改易したわけです。

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