関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像1957 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」28

<<   作成日時 : 2017/07/02 10:11   >>

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 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「義演准后日記」の8月4日条には次のような記載があります。
 「家康の上洛は、なかなかなし難い旨の風聞がある。近日、出陣衆(上杉討伐に出陣した上方の大名という意味)は帰ってくる、ということである。伏見城の奉行である石田正澄・新庄直定は金銀を炭の中から掘り出している、ということである。或いは、唐物の重宝、或いは、絹綿類の消失はその数を知れず、ということである」と。
 この記載についての白峰氏の解説は次の通りです。
 「8月4日の時点で、家康の上洛がなかなかなし難い旨の風聞があったことは、この時点(8月4日)での家康の苦境を伝えている。近日、出陣衆(上杉討伐に出陣した上方の大名という意味)は帰ってくる、としている点は、上杉討伐の中止がこの時点(8月上旬)で都では明らかになっていたことを示している。近日帰ってくる予定の出陣衆(上杉討伐に出陣した上方の大名という意味)と大坂奉行衆との対戦を予想する記載がない点は、出陣衆(上杉討伐に出陣した上方の大名という意味)と大坂奉行衆は対立しておらず、家康だけが江戸に残って孤立していることを示している。
 石田正澄・新庄直定が、落城後の伏見城の奉行であった点は注目される」と。
 家康の上洛がすぐにはないだろうということについては、三成書状の中でも記されています。8月6日付の真田昌幸宛書状の中で、家康は上杉景勝・佐竹義宣を敵に回しており、20日程で西上するのは難しいのではないか、道中の諸将は、秀吉恩顧の者ばかりであり、しかも妻子を大坂に置いているので家康の味方をすることはないのではないか、よしんば家康が西上したとしても、尾張と三河の間で討ち取れるという意味のことが記されています。また8月10日付の佐竹義宣宛の書状では、上杉景勝と協議して、家康を討ち果たすようにしてほしいと依頼しています。 会津攻めに従軍した秀吉恩顧の諸将に対して、豊臣公儀側が味方になってくれるのではないかと思っていることは、上記の8月6日付の三成書状に記されていますが、前日の8月5日付の真田昌幸・信幸・信繁宛の書状の中でも、家康に従って関東に下った秀吉恩顧の諸将は、尾張・三河まで戻ってきたが、こちらの味方に付くように説得中だという内容のことが記されています。
 こういうことは、豊臣公儀側だけでなく在京公家や僧侶の間でも、共通認識であったのかもしれません。
 三成の兄の正澄が伏見城の奉行をしていたという点が事実であるかは、他の史料で確かめる必要がありますが、確かに興味深い内容です。正澄はこの後、関ヶ原の戦いに加わらず、佐和山城を守り、最後は自害しています。

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