関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1979  中野等氏「石田三成伝」55 三成の帰京と利休事件

<<   作成日時 : 2017/07/24 00:05   >>

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 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、三成が奥州再下向から戻った時期について、2月4日の「政宗の上洛と前後して、三成も帰京を果たしたのであろう」と推定されています。
 伊達政宗は、旧大崎・葛西領での一揆を扇動したとの疑いがかかったため、政宗と対立した蒲生氏郷と共に、真相糾明のため、都に呼び戻されます。この糾明の件に三成が関わったかどうかは明らかでありませんが、三成の在京が確認されることとして、中野氏の同書で挙げられているのは、「時慶記」の2月15日条に、「石田治部少輔本門へ一礼アリ」という記述です。
いつ三成が上方に戻ったかは重要な問題であり、それは千利休切腹事件に三成が関与していたがとうかということと大きく関わってくることだからです。山本兼一氏の「利休にたずねよ」や安部龍太郎氏の「等伯」に代表されるように、三成が利休追い落としを画策したというふうに描かれていますが、これらの小説には、直前まで三成が奥州に再下向しているということが全く考慮されていず、三成はずっと上方にいたという描かれ方をしています。またそうでないと、三成が利休事件を画策することができないからです。これらの小説は、江戸時代に形成された三成=陰謀家・奸臣という捉え方に基づくものです。
 前にも述べたように、利休事件は、三成の不在の時に仕掛けられたものですから、東国にいた三成が直接、関与できたはずがありません。利休が京都の利休屋敷で秀吉の命令によって自害させられますが、その原因の一つに大徳寺の三門に利休の木像が安置されたことだと云われています。それが問題視されたのは天正19年の初め頃からだと云われており、その時点で三成は奥州にいました。また大徳寺の春屋宗園は三成の参禅の師であり、三成と大徳寺の親密な関係から、三成が大徳寺を陥れるようなことはするはずがありません。利休が京から堺に移されたのが2月13日ですから、その時に三成が京に戻っていたのかは微妙です。
 中野氏の同書には利休事件について、次のように記されています。
 「そのタイミングから推して、一連の奥羽争乱との関わりも想定されるが、現状において因果関係を云々する史料状況にはない。また、利休の死に三成が関与していたか否かについては、当時からいろいろな憶測が流れていたようであるが、詳細は判然としない」と。
 三成が関与したかどうかについては、中野氏は判断を中止しておられるわけです。利休事件と「奥州争乱との関わり」については、それを論じたものがあるのかどうか寡聞にして知らないのですが、研究の余地はあるものの、今のところ直接の関係はないのではないかという気がします。

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