関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像1980 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」44

<<   作成日時 : 2017/07/25 10:19   >>

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  白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「時慶記」の8月27日条には、次のような記載があります。
 「小早川秀秋への注進の話として聞いた分は、伊勢安濃津城は降参し、(城)主(富田信高)は高野山に住む(ことになった)。松坂城はそのまま詫言が済んだ。(よって、伊勢方面の毛利家の)軍勢は手明きになり、尾張方面(家康方の諸将)は手強い、とのことである」と。
 この記載についての、白峰氏の解説は次の通りです。
 「西洞院時慶が、東国衆は手強い、と記していることは、豊臣公儀の立場から見ていたことになる・その点は興味深い」と。
 豊臣公儀寄りの在京公家にとって、岐阜城落城は少なからぬショックなことだったことがうかがえますし、何か不安めいたことも覚えたかもしれません。
 光成準治氏の「関ヶ原前夜」(NHK出版)には、「安濃城城は高野山の木食上人の仲裁により27日に開城、富田は剃髪して高野山に入ったとされる」と記されています。
 さらに、27日付の毛利輝元書状が取り上げられ、その内容から次のようなことが指摘されています。
 「輝元の関心は二の丸を毛利軍で占領することにあった」、「伊勢における占領地の処置を豊臣政権の奉行として増田長盛が執り行っていたことを窺わせるが、輝元はその処置に異議を唱え、毛利氏の勢力拡大を企図している。これは、反徳川闘争決起という点では一致していた三成・長盛ら豊臣奉行衆と輝元の間に、目指す方向のずれが生じてきたことを示しているのではないだろうか」と。
 輝元は光成氏の同書に記されているように、西国を中心に領土拡大に躍起で、豊臣政権の維持を最大の目的としている三成ら奉行衆らと思惑が違ってきています。
 木食応其上人は三成との関係が親密で、それは秀吉の紀州攻めの時から始まり、高野山が攻撃されずにすむことにつながりました。九州攻めの後、島津義久が上洛する際、三成と木食上人が案内人を務めています。
木食上人は豊臣政権で厚遇されており、秀吉から寺領を拝領し、応其寺を建てていますし、寺宝として秀吉から拝領した袈裟があります。関ヶ原の戦いの際も、安濃津城の開城交渉の後、大津城の開城交渉にも当たっています。

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