関ヶ原の残党、石田世一の文学館

アクセスカウンタ

zoom RSS 石田三成の実像1981  中野等氏「石田三成伝」56 「御前帳」「郡図」・秀吉が所望した脇差

<<   作成日時 : 2017/07/26 10:02   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、天正19年(1591)5月3日付の宮部継潤宛の豊臣氏四奉行連署状が取り上げられ、次のように解説されています。
 「三成らは、大名の領知内容を『御前帳』『郡図』に仕立てて呈上するように命じている。『御前帳』という名辞は、貴人の御前に呈上される帳簿という意味だが、実体はいわゆる『検地帳』に擬せられる。奉行衆は別紙として『御帳之調様一紙』を用意すると述べている。これはいわゆるマニュアルの類であり、『御前帳』は全国統一の基準で調整されたことがわかる
 こうして全国で統一基準に拠る『御前帳』と『郡図』が、天正19年の後半に調整され、それらは結果的に禁中に献納されることになる」と。
 これと同じ内容の書状が、各大名に送られ、「御前帳」と「郡図」が豊臣政権に提出され、天皇に呈上されたことになります。「御前帳」は「検地帳」ということですが、この段階で統一基準によって正確な全国の検地ができていたわけではありません(島津領、佐竹領の厳密な検地が行われるのもまだ先のことです)。しかし、一定の成果は得られたはずであり、全国を統一したからこそできたことでした。
 中野氏の同書では、三成が「秀吉側近の重要人物として、その権勢は日に日に強まっていくという感がある」とし、そのことを示すこととして、毛利輝元の家臣の児玉元兼が持っている脇差「貞宗」を秀吉が所望した時のことが挙げられています。三成がその意を受けて直接要求しますが、元兼は容易に応じませんでした。その時、輝元が元兼の嫡男元忠に宛てた書状の中で、三成のことを「非常な重要人物であることは、最早言うまでもないことである。いい加減考えていたら大間違いである。三郎右衛門尉元兼とよく話し合い、少しも疎んずることのないように」と記されています。
 秀吉が、三成を通じて元兼に対して、さらに脇差「正宗」も要求したことが、文禄4年(1595)11月28日付の児玉元兼宛毛利輝元書状に記されていることが、中野氏の同書には記されています。輝元は元兼に、差し出した脇差の代わりに100石の知行を与えたことも、その書状に記されています。
 ところで、秀吉に献上された脇差の「貞宗」と「正宗」ですが、三成が所持していた脇差に「貞宗」と「正宗」がありました。「貞宗」は、関ヶ原の戦いで敗れた三成が、田中吉政に捕まった時、形見として渡していますが、「太閤から賜ったもの」だと言ったとされていますから、児玉元兼が差し出したものと同じかもしれません。一方、「正宗」は、奉行職を解かれた三成が、佐和山まで送ってくれた結城秀康にお礼として渡したものですが、この「正宗」については、宇喜多秀家が毛利若狭守から400貫で買い求めたものを石田三成に贈ったということが、「享保名物帳」に記されていますが、この記述が正しいのかとはわかりません。この「正宗」も三成が秀吉から拝領したという可能性もあると思います。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
石田三成の実像1981  中野等氏「石田三成伝」56 「御前帳」「郡図」・秀吉が所望した脇差 関ヶ原の残党、石田世一の文学館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる