関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像1983 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」47

<<   作成日時 : 2017/07/28 09:56   >>

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 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、北政所が自分の居住する京都新城を破壊したという記事が、いくつかの日記の8月28日条から9月2日条にかけて記されていることを前述しました。その続きです。
 「時慶記」の8月29日条には、次のような記載があります。
 「南城(北政所がいる京都新城)の堀・石垣を壊す、とのことである。城(京都新城か?)の石を西洞院時慶が所望したが、できない旨を言われた」と。
 同日記の9月1日条には、次のような記載があります。
 「西洞院時慶が城(京都新城か?)へ人を遣わした。板屋左近丞・榎並助丞へ平野宮(平野神社)の石据えの用として申し遣わしたところ、同意した。また、板屋左近丞へ(人を)遣わして、石に印(刻印のことか?)をさせた。佐和山方面へ東国衆(家康方の諸将)が来て所々に放火した、とのことである」と。
 佐和山方面に放火というのは、誤報かもしれませんが、家康方が上方方面に攻めてくるのではないかという恐れは、公家たちの間に拡がっていたのではないかという気がします。やはり、それは岐阜城の落城という事態を受けてのものだったのではないでしょうか。そういう意味では、京都新城の破壊も、それと関連性があるような思いを持ちます。「城郭との防備の構えをはずして、戦乱の巷となるのをさけた」という内藤昌氏・油浅耕三氏の見解も成り立つような気がします。むろん、奉行衆や毛利などの豊臣公儀方が京都新城を攻撃するはずはありませんから、北政所が警戒していたのは、家康方の諸将だったと思われます。彼らは御所の方まで攻撃してくるかもしれないという万一の場合に備えての、北政所の判断だったのではないでしょうか。
 この後、関ヶ原の戦いの敗報を知った北政所が御所の勧修院晴子のところへ逃げ込んでいることが、「北野社家日記」「お湯殿の上の日記」「言経卿記」などの9月17日条に記されています。特に「言経卿記」には、逃げ込んだ北政所が「言語道断の様子で、裸足で歩く様子であった」などという記載があり、この記載についての白峰氏の解説は次の通りです。
  「北政所が関ヶ原の戦いの2日後に裸足で京都新城から陽光院(陽光太上天皇)妃の御所になぜ逃げこんだのか、その理由を考察する必要がある」と。
 しかし、このことは、北政所が豊臣公儀方であることを物語っているのではないでしょうか。オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)にも、「梵舜日記」の、北政所が徒歩で逃げ財産を隠したという記述からも、北政所は三成寄りであったことが記されています。
 

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