関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1984  中野等氏「石田三成伝」57 三度目の奥州下向1

<<   作成日時 : 2017/07/29 00:14   >>

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 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、前述したように、天正19年に「大名として10万石程度の領知を美国内に得つつ、近江国内の豊臣家蔵入地を支配する代官としての立場から佐和山城を預かっていた」と指摘されていますが、三成はそういう仕事に専念することもできず、奥州の争乱を鎮めるため3度目の奥州下向が命じられたことが記されています。
 2度目の奥州下向から戻ってきたのが、2月中旬頃のことであり、それから4ヶ月程経った6月20日に秀吉が発した軍令に「相馬筋石田治部少輔被遣(つかわされ)候」と記され、「7月末には岩城に下着し、その後は相馬を経て北上」しています。1年半のうちに3回も上方と奥州を往復したわけですから、猛烈な働きぶりです。この時期、領知や代官支配に当たっては、父の正継や兄の正澄が代わって行っていたのかもしれません。
 中野氏の同書では、「8月上旬゜には一揆も壊滅し、9月に入ると、出羽米沢の伊達政宗が、一揆を起こした大崎・葛西の旧領への転封を命じられる」と記されていますが、この時期の9月22日付政宗宛三成書状が取り上げられています。この書状は少し長いので内容紹介は省きますが、この書状についての中野氏の解説は次の通りです。
 「『伊達政宗卿伝記史料』は、同じ文書に言及する箇所で、この時の三成の在所を、陸奥国江刺(えさし)郡黒石(くろいし)とする。三成はかつて蘆名家中金上(かながみ)氏のこと(摺上原の敗戦、金上兼実に対する調略など)で政宗に含むところがあり、伊達家転封についても一定の意見具申を行ったとも考えられる。しかしながら三成は、岩手沢(大崎岩出山)への居城を移そうとする政宗の立場を考え、ここでは積極的な協力を申し出ている。気仙・大原両城に駐留する伊達勢の人数に不安があれば、三成管下の兵を充当するとし、また、豊臣秀次(中納言殿)の指示で破却される城に、まわすべき普請衆が不足するおそれがあれば、これまた三成が管下の兵に命じて、家々を損ぜないように分解してどこにでも運ばせよう、と述べている」と。
 確かに、丁寧な誠意に満ちた、心遣いあふれる三成書状です。伊達政宗にしたら、泣く泣く転封せざるをえなかったのですから、三成はその心情を思いやって、そういう手紙にしたのでしょう。「家(屋敷に)ついては、損なわないように配慮します」「家(屋敷)・矢倉などは入念に損なわないようにいたします」と同じことを繰り返しているのもその表れです。
 ところで、伊達政宗は秀吉死後、家康に接近しますが、三成の開いた茶会に出席もしており、いろいろと情勢を見ていたのではないでしょうか。結果的に、政宗は家康側に就きますが、領土的な野心を抱いており、それを家康に警戒され、戦後、百万石を与えるという約束を反故にされています。

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