関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像1958 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」29

<<   作成日時 : 2017/07/03 10:20   >>

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 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「義演准后日記」の8月5日条には次のような記載があります。
 「毛利(家)内の安国寺恵瓊が尾張へ1000人ばかりで出陣した、ということである。(安国寺恵瓊は)当郷(醍醐)を通った。長束正家は伊勢口へ出陣した、ということである。石田三成は本城である佐和山(城)へ行った、ということである。(石田三成はこれから)出陣する、ということである」と。
 この記述についての白峰氏の解説は次の通りです。
 「尾張へ出陣したとしている安国寺恵瓊の兵力数が1000人ばかりであったことは注目される。ただし、実際には安国寺恵瓊が出陣したのは尾張ではなく伊勢である」
 「8月5日の時点で、石田三成はこれから佐和山城より出陣する予定、としていることは注目される。また、8月5日に安国寺恵瓊・長束正家・石田三成が一斉に出陣のために動いていることは注目される」と。
 確かに安国寺恵瓊・長束正家は伊勢口に出陣していますが、「真田家文書」に残る8月5日頃の時点における豊臣公儀方の諸将の配置と動員人数を記した史料には、長束正家の名は伊勢口、1000人と記されていますが、安国寺恵瓊の名はありません。しかし、「毛利輝元 4万1000人」とあり、輝元自身は大坂城から動かなかったものの、「1万人は子の藤七郎(=毛利秀就)に付け置く」と記され、白峰氏は「毛利秀元」のことと解釈されています。安国寺恵瓊は毛利勢の中に属していたものと思われます。
 前述したように、「時慶記」の8月10日条に「(豊臣公儀方の)諸大名が出陣」との記載があり、奉行衆(といっても、増田長盛や前田玄以は大坂城にとどまっていたままであり、上記の「真田家文書」に残る史料にも、二人の名は「大坂城御留守居」の中に記されています)や安国寺恵瓊の動きはそれより早かったのかもしれません。三成は他の諸将に先んじて「美濃口」に出陣したと拙ブログ記事で記しましたが、この「義演准后日記」のこの記述からすれば、「伊勢口」へ出陣する奉行も、三成同様他の諸将に先んじていた可能性は高いと思われます。恵瓊は奉行ではありませんが、毛利家の外交僧的な役割を果たしており、三成の挙兵に関わった人物ですから、豊臣公儀側の中枢的なメンバーだったからかもしれません。
 三成は8月4日まで大坂城にいましたが、それから佐和山に戻り、8日に出陣し、10日には大垣城に入っています。 

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