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zoom RSS 石田三成の実像1985  中野等氏「石田三成伝」58 三度目の奥州下向・佐竹義宣書状

<<   作成日時 : 2017/07/30 17:37   >>

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 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、三成が三度目の奥州下向をしていた時の、国許にいた和田昭為に宛てた佐竹義宣書状が取り上げられ、三成との親密な関係がうかがえる内容になっています。この頃、義宣は三成と行動を共にしていました。
 書状の中で、まず「石田三成(治部少輔)殿が来月10日頃に、陸奥と常陸の国境付近に御出になられる。俵子(兵粮米)その他の準備を調えられたい。石田殿へは、去年金子50枚を用立てる約束をしていたが、まだ果たしていないので、それを今度済ますように仰った」と記されています。
 大変な義宣の気の遣いようですし、約束した三成への金を用立てべく腐心している義宣の姿がうかがえます。むろん、この金子は三成の私的な金ではなく、公用に使うものだったのでしょうが。
 その書状には、「来年正月には九州陣が催されるので、これにも(秀吉の)御朱印に拠る指示が下った。軍勢を5000動員すべしとのことなので、あれこれ骨折りの極みだが、少しも油断なく催促いたすべきである」と。
 ここで「九州陣」とあるのは、朝鮮出兵のことです。
 また三成の検地に期待していることも、その書状には記されています。
 すなわち、「江戸・太田の料所については、このたびの検地でも充分な成果が上がらなかった。石田三成家中によって、縄打ち(丈量検地)が実施されれば、年貢は今の二倍になるであろう」と。
 大名にとって、三成らによる太閤検地には定評があったことがわかります。家の内部で検地しても、自己申告の指出検地という制約があったり、実際の検地を行っても統一基準でやらなかったり、私的なさじ加減があったりして、うまくやれなかったことがわかります。「年貢が今の二倍になる」というのは、領知高が二倍になったという意味でしょうから、太閤検地についてのそういう評判が広がっていたことを語っている気がします。佐竹領の検地は文禄3年(1594)に行なわれますが、その結果、佐竹領の領知高が、「27万5800石」から「54万5800石」になったことが、中野氏の同書に記されていますから、まさに領知高は「二倍にな」ったわけです。
  一方、佐竹領と同年に行なわれた、島津領検地については、中野氏の同書には、「30万石の打ち出しに成功する」と記されていますが、この点について、オンラン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)の「島津義弘」の章には、次のように記しています。
 「検地前の島津家は24万石だったが、実際は55万9500石あり、義久、義弘ともに10万石、伊集院忠棟に8万石が与えられた」と。

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