関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1986  中野等氏「石田三成伝」59 三度目の奥州下向2 唐入り1

<<   作成日時 : 2017/07/31 18:32   >>

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 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、三成の三度目の奥州下向について、天正19年「10月6日に蒲生氏郷とともに米沢に到り、8日に三春(みはる)を経て10日には岩城平(いわきだいら)に到着して仕置を行っている」、「佐竹義宣書状から、三成は9月20日の段階では、10月10日頃には常陸の国境に達する予定だったが、若干遅れて常陸国内に入ったものと考えられる」と記されています。
 三成が京に戻った時期は10月末以降であろうとの小林清治の推察も紹介されています。
 秀吉が関白を辞し、代わって秀次が関白に就任したのは同年12月28日ですが、それは鶴松を失った秀吉が、後継者を秀次にし、自分は軍を率いて渡海し「唐入り」に専念するためだったと中野氏の同書に記されています。実際、秀吉は渡海するつもりでしたし、拙ブログで前述したように、佐賀県立名護屋城発行の図録「肥前名護屋城と『天下人』秀吉の城」には、「豊臣秀吉の朝鮮国漢城までの経路と『御座所』普請(計画)」が図になって載っています。秀吉の「御座所」は壱岐の勝本、対馬の府中・豊崎、朝鮮半島の釜山から漢城までの二十数箇所にわたっています。この図は「毛利家文書」などを参考に作成されています。
 しかし、秀吉の渡海は最終的に中止され、天正20年6月6日になって秀吉に代わって増田長盛・大谷吉継・石田三成ら奉行衆が渡海することになります。秀吉渡海中止の理由について、中野氏の同書には、「『不時の早風』という天候上の問題」と「朝鮮半島南岸における制海権の確保が微妙となってきた」ことが挙げられています。実際、三成らは渡海して、朝鮮半島の悲惨な状況を目にして、戦いを続けることは不可能だということを実感して、講和交渉に力を注ぐことになります。
 「唐入り」に関して、三成関係としては天正18年8月15日付で、三成の兄の正澄が、「島津義弘にも名護屋城普請に関わる書状を発している」ことが挙げられています。名護屋城の普請が、黒田長政・小西行長・加藤清正らを中心とする九州の諸大名によって始まったことも記されています。この時、三成は奥州仕置に専念していました。
 このことに関する島津氏の動きについて、中野氏の同書には、「いったんは島津義久が名護屋に向かった」が、「途中での罹病(『虫気』、腹痛であろう)を理由に、鹿児島へ帰ってしま」い、「義久はみずからに代えて、弟義弘を指し向かわせるので問題はないと三成に弁明しているが」、「政権に協力的な義弘に対して、兄の義久は政権との距離を保とうとする傾向があ」ると記されています。
 こういう義久と義久の豊臣政権への距離感の違いが、関ヶ原の戦いにまで尾を引き、島津軍の数の少なさにつながったと考えています。 

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