関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像1959 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」30

<<   作成日時 : 2017/07/04 10:02   >>

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 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「義演准后日記」の8月7日条には次のような記載があります。
 「豊臣秀頼の御所御祈りとして、大般若経の真読を来る(8月)10日より執行すべき旨の御使い(義演のところへ来た)。(これは)天下静謐、(秀頼の)御武運長久の(ための)御祈りである」と。
 この記載についての、白峰氏の解説は次の通りです。
 「天下静謐の祈りを秀頼が義演に命じた、ということは秀頼が天下人(当時の最高権力者)であったことを明確に示している」と。
 前日の8月6日には、「豊国社。豊臣秀頼より立願」という記述が「舜旧記」にあることが、「時列系データベース」に掲載されています。
 秀頼が豊臣公儀の最高権力者であったとするのは、関ヶ原の戦いの後も変わりませんでした。それだからこそ、家康は別の権威として、幕府を開き将軍となる必要性があったわけです。奉行衆・毛利方は関ヶ原の戦いまでは、豊臣公儀側の中枢であり、白峰氏の見解通り、その時点で、家康は公儀性を奪われていたわけですが、関ヶ原の戦いで勝利することによって、豊臣公儀の大老として返り咲き、三成らを謀反人として処刑します。しかし、このままでは家康はあくまで豊臣政権の大老という地位にとどまり、秀頼の家臣という存在でしたから、そこから脱却するための将軍就任でした。
 「義演准后日記」の8月8日条には、次のような記載があります。
 「(以下のことを)伝え聞いた。去る(8月)3日、越前国と加賀国の堺にある大聖寺という城は山口正弘が城主であり、京御方(豊臣公儀方)である。(この大聖城に対して)前田利長が攻撃して落城し、山口正弘(山口宗永)は自害した、ということである。珍しいこと(である)」と。
 この記載についての白峰氏の解説は次の通りです。
 「山口正弘について、『京御方』と表記している点に注意すること。『京御方』という表記は、京都は首都なので豊臣公儀方という意味であると考えられる。
 山口正弘が8月3日に自害した、というのは情報としては正確である」と。
山口正弘は、安藤英男氏の「西軍武将事典」(同氏編『石田三成のすべて』【新人物往来社】所載)には、「山口宗永」として載っていますが、その事蹟の中に、「関ヶ原役には、前田利長・利常の兄弟が押し寄せるのを、大聖寺の城外に出でて力戦したが、衆寡敵せず力尽きて自刃した。享年56才」などと記されています。

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