関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像1961 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」32

<<   作成日時 : 2017/07/06 10:23   >>

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 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「義演准后日記」の8月10日条には次のような記載があります。
 「大坂城の火事消除の祈祷のことを(秀頼から義演に対して)命じられ、施物として黄金10両を賜った」と。
 「義演准后日記」の8月11日条には、引き続いて次のような記載があります。
 「義演の大坂(城)の火災(消除)の祈祷をおこなった。火災札を大坂へ進上した。蜂須賀家政の子息(蜂須賀至鎮)は、さきごろ家康の出陣(上杉討伐)に共奉(供奉ヵ)し、親(蜂須賀家政)は大坂にいた。この度の一乱に迷惑に及び、これにより、(蜂須賀家政は)まずは逼塞の分、ということである。よって、(蜂須賀家)の家臣の頭(かしら)共が、秀頼様の馬廻になって北国へ出陣し、今日、当郷(醍醐)に陣取りをした。蜂須賀家政は秀吉(『太閤様』)の根本の長衆(股肱の臣という意味か?)であり、阿波一同(一円ヵ)を御扶持としている」と。
 義演の秀頼の祈祷を行っているのは、これまでもたびたび出て来ましたが、豊臣政権と醍醐寺の特別な関係がうかがえます。
 「蜂須賀家政」については、安藤英男氏の「西軍武将事典」(同氏編『石田三成のすべて』【新人物往来社】所載)に載っており、その事蹟の中に、「関ヶ原役には、致仕して在城していたが、病いと称して西軍には代理を出し、大坂久太郎町橋を警備し、北国への進撃にも加わらせた。戦後、嫡男の至鎮(よししげ)が家康に属していたので無事、至鎮も本領を安堵せられた」などと記されています。
 蜂須賀は真田家同様、家中で敵味方にわかれたわけですが、このような家は少なくありませんでした。しかし、そのために戦後、家の存続を許された家も多くありました。選択肢としては仕方なかったのかもしれません。
 三成は8月10日に大垣城に入っていますが、そのことを示すのが、8月10日付真田昌幸・信繁書状です。この書状は、白峰氏による「石田・毛利連合政権の発給書状についての時系列データベース」(『豊臣公儀としての石田・毛利連合政権』所載)にも掲載されており、「去る(8月)5日の書状を、今日(8月10日)、濃州(美濃)大垣において拝見したことを伝える。尾張・三河両国に在陣する家康方諸将の動向を報じ、三成の尾張・美濃両国への出陣を報じる。(中略)島津義弘そのほか九州の諸大名が佐和山に来ていて、人数(軍勢)の必要次第に尾張・美濃の間へ打ち出す予定であることを報じる」と。
 8月10日の時点で島津義弘らが佐和山に来ていたことがこの書状からわかりますが、三成は先んじて大垣城に来たと考えられます。

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