関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像1962 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」33

<<   作成日時 : 2017/07/07 11:01   >>

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 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「時慶記」の8月11日条には次のような記載があります。
 「西洞院時慶から豊臣秀頼・毛利輝元・前田玄以・増田長盛へ祖神への祈念の祓礼を遣わした。西洞院時慶から前田玄以・安国寺恵瓊等へ書状を遣わした」と。
 この記載について、白峰氏の解説は次の通りです。
 「このことから8月11日の時点で豊臣秀頼・毛利輝元・前田玄以・増田長盛は大坂城にいたということが推測できる」
 「このことから8月11日の時点で安国寺恵瓊は上方にいた可能性も考えられる」と。
 安国寺恵瓊の居所と行動が気になります。前述したように、「義演准后日記」の8月5日条には、恵瓊が出陣したという記載があり、両日記の記載が事実だとすると、恵瓊は伊勢口に出陣した後、また上方もしくは大坂城に戻ってきた可能性があります。戻ってきたのは、大坂城との連絡を密にするためだったのかもしれませんし、伊勢口出陣のための具体的な出陣のスケジュールを整えるためだったのかもしれません。豊臣公儀方の諸将が出陣するということは、前述したように、「時慶記」の8月10日条に記されていましたが、この点に関して、「義演准后日記」の8月17日条に、「伊勢へ8万騎が出陣し、北国へ3万余が出陣した、ということである」と記されており、順次出陣していき、17日頃の時点で完了したということかもしれません。恵瓊はこういうことを取り仕切っていたのでしょうか。このあたりは今後の検討課題です。
 「時慶記」の8月12日条には、次のような記載があります。
 「西洞院時慶から豊臣秀頼・毛利輝元・増田長盛・前田玄以へ平野の祓御礼を進上した」と。
 この記載について、白峰氏の解説は次の通りです。
 「このことから8月12日の時点で豊臣秀頼・毛利輝元・前田玄以・増田長盛は大坂城にいたということが推測できる」と。
 豊臣秀頼・毛利輝元・前田玄以・増田長盛は結局、関ヶ原の戦いまでずっと大坂城にとどまったままでした。もっとも、輝元については、8月5日頃の計画では、伊勢方面軍に名前がありますし、8月7日付三成書状には、家康が浜松辺りまで出陣してきた場合、3万人を召し連れて出馬することに決まったと記されています(白峰氏「新『関ヶ原合戦』論」【新人物ブックス】)。
 

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