関ヶ原の残党、石田世一の文学館

アクセスカウンタ

zoom RSS 三成の実像1963 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」34

<<   作成日時 : 2017/07/08 10:59   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 0

白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「時慶記」の8月14日条には、次のような記載があります。
 「西洞院時慶に対して、前田玄以からは返書があったが、増田長盛からは取り紛れのため一報はない。西洞院時慶から安国寺恵瓊へ書状を遣わす」と。
 ここでも恵瓊の名が出てきていますが、恵瓊はやはり「時慶記」に記載がある8月11日からこの日まで上方にいたのでしょうか。
 「義演准后日記」の8月15日条には次のような記載があります。
 「宇喜多秀家が1万人で出陣した、ということである。(宇喜多秀家の軍勢が)当所(醍醐)を通った」と。
 この記載についての白峰氏の解説は次の通りです。
 「宇喜多秀家の軍勢の人数(1万人)と出陣した日(8月15日)がわかる点は重要である」と。
 「真田家文書」に残る、8月5日頃の時点における豊臣公儀方の諸将の配置と動員人数には、宇喜多秀家は伊勢方面軍に配置されており、「1万8000人」と記されています。前述したように、同日記の8月17日条には「伊勢へ8万騎が出陣」とありますから、順次伊勢方面に諸将は出陣していったものと思われます。「真田家文書」に残る上記の史料には、伊勢方面軍の総数は、「7万9860人」と記されていますが、白峰氏による合計数の計算の結果、「8万9860人」と訂正されています(「新『関ヶ原合戦』論」【新人物ブックス】)。しかし、同日記の示す軍勢数と概数においてそれほど多い違いはありません。
 「時慶記」の8月15日条には、次のような記載があります。
 「天下無事のことを禁裏(後陽成天皇)が仰せ出される、とのことである。広橋兼勝(権大納言)・勧修寺光豊(参議)両人を大坂へ明日遣わす(予定である)」と。
 この記載についての白峰氏の解説は次の通りです。
 「『史料綜覧』巻13、慶長5年8月16日条(東京大学出版社、1982年復刻、247頁)は『権大納言広橋兼勝・参議勧修寺光豊ヲ大坂ニ遣シ、豊臣秀頼ヲシテ、和ヲ講ゼシメラル』としている。『大阪編年史』3巻、慶長5年8月16日条(大阪市立中央図書館、1967年、160頁)の綱文は『権大納言広橋兼勝・参議勧修寺光豊ヲ大坂ニ遣シ、秀頼ニ勅シテ、東西兵ヲ止メ、和ヲ講ゼシム』としている。この場合の『天下無事』の『無事』は有事の反対語で平和(戦争がない状態)を指すと考えられる。よって、『天下無事』=天下平和という意味になる」と。
 後陽成天皇が和平を求め、具体的な行動を取っていたことがわかる記載です。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 1
なるほど(納得、参考になった、ヘー)

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
三成の実像1963 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」34 関ヶ原の残党、石田世一の文学館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる