関ヶ原の残党、石田世一の文学館

アクセスカウンタ

zoom RSS 石田三成の実像1964 中野等氏「石田三成伝」48 岩城家の相続問題

<<   作成日時 : 2017/07/09 11:18   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 0

 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、三成は忍城を天正18年(1590)7月16日に開城させた後、25日には宇都宮にいたことが指摘されています。すなわち、この日、「鹿島社の大宮司則興に社領において乱妨狼藉を行なう者は罪科に処す旨の文書を手交する」と。秀吉が宇都宮に着いたのは、7月26日のことですから、三成は先に着いていたことになりますが、中野氏の同書では、「三成は、北上する秀吉の本隊に合流し」たと記されています。
 岩城家の相続問題に関しても、三成が関わっていたことが中野氏の同書で述べられています。すなわち、「7月22日に、岩城常隆が小田原参陣の岐路、相模国星谷(しょうこく)で客死する。常隆には実子の政隆がいたが、秀吉の命によって常陸領は養子として迎えていた能化丸(のうげまる)【のちの貞隆】に与えられる。能化丸は、佐竹義重の三男すなわち義宣の弟であり、宇都宮で秀吉に謁見し、正式に岩城領主となる。これまでの佐竹家と三成との関係を考えると、能化丸が秀吉に謁見する場に、三成は当然陪席していたものと考えられる」と。
 岩城家の相続問題は、多分に秀吉の政治的な関与によって定まったことがわかりますし、岩城家を佐竹家の支配のもとに置こうという秀吉の意思の表れだったと思います。三成も佐竹家の取次を務め、親しい関係でしたから、佐竹家の大名基盤を強固なものにし、佐竹家を豊臣大名化するには、岩城家の基盤を整え、岩城家を取り込むのも有効な手立てと考え、秀吉に助言したのかもしれません。三成と岩城領については、中野氏の同書に、この後三成が発した書状をもとに詳しく論じられていますので、また改めて取り上げたいと思います。
 政隆はこの後、伊達家に頼り、一門となって伊達政隆と名乗ります。一方の岩城城主となった能化丸(貞隆)は関ヶ原の戦いの後、改易されますが、後に大名として復帰します。このことについて、安藤英男氏の「西軍武将事典」(同氏編『石田三成のすべて』【新人物往来社】所載)には次のように記されています。
 「天正18年8月、岩城忠隆の養子として岩城平城12万石を安堵された。(中略)関ヶ原役には西軍に通じて、兄・佐竹義宣と共に家康に協力しなかったので、慶長7年7月、領土を没収された。その後、元和2年8月、信濃川中島で1万石を与えられ、漸く大名に復帰した」などと。
 中野氏の同書には、戦勝祝賀の礼状である7月晦日付の本願寺顕如宛の秀吉朱印状の最後に、「なお、増田長盛・石田三成が申述いたします」という記載があることが記されています。
顕如は大坂本願寺にこもって信長と戦いましたが、最後は和睦し、その後、秀吉の時代になっても恭順の意を表しています。この北条攻めの翌年の天正19年に、秀吉は七條堀川の地を与え、それが本願寺の本拠地となりました。それが現在の西本願寺です。しかし、顕如の長男教如は、信長に対して最後まで抵抗しましたし、それは秀吉に対しても同じであり、それが関ヶ原の戦いの後、家康の援助によって東本願寺を建立することにもつながります。
 
 

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 1
なるほど(納得、参考になった、ヘー)

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
石田三成の実像1964 中野等氏「石田三成伝」48 岩城家の相続問題 関ヶ原の残党、石田世一の文学館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる