関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像1987 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」48

<<   作成日時 : 2017/08/01 00:06   >>

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 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「義演准后日記」の9月4日条には、大津城に関して次のような短い記載があります。
 「大津城について雑説がある」と。
 この記載についての白峰氏の解説は次の通りです。
 「この雑説とは、大津城の城主(京極高次)が敵側(家康側)になる、という内容のものと推測される」と。
 大津城のことは、「時慶記」の同日条には次のように記されています。
 「大津(城)のことは咲止(=笑止[困ったこと、という意味])といううわさがある。城主(京極高次)が帰城した(とのことである)。(京極高次には)脇坂(安治)そのほかが同心しているとのことである」と。
 この記載についての白峰氏の解説は次の通りです。
 「京極高次に脇坂安治などが同心している、という記載は注目されるが、その後、脇坂安治が大津城に籠城した、というような記載は公家等の日記には一切出てこないので単なる噂レベルのものであった、と考えられる。その証左として、後述のように、9月13日に西洞院時慶は脇坂安治に書状を出しているが、仮にこの時点(9月13日)で脇坂安治が豊臣公儀に敵対して大津城に籠城していたとすれば、西洞院時慶が脇坂安治に書状を出すことはとてもできなかったであろう」と。
 脇坂は周知のように、関ヶ原の戦いの際、豊臣公儀方を裏切りましたが、彼が裏切るのではないかという噂が9月4日あたりの段階であったからこそ、大津城に脇坂も籠城したということがまことしやかに言われたのではないでしょうか。
 以前にも拙ブログで取り上げたように、「大関ヶ原展」で、8月1日付けの脇坂安治の子の安元に宛てた家康書状が展示されていました。その書状について、同展の図録には次のように解説されています。
 「本状によると、脇坂安治は上杉攻めに向かう徳川方の軍勢に息子の安元を参陣させようとしたが、石田三成に阻まれてかなわず、やむなく引き返して石田方の武将と行動をともにしたことを、徳川家康が山岡道阿弥(景友)を通じて聞いた旨が記されている。家康は脇坂父子に対して備えを固くするよう指示している。(中略)
 合戦後、小川・赤座らが改易されたのに対し、脇坂家は本状によって所領を安堵される」などと。
 「小川・赤座ら」は、脇坂同様、三成ら豊臣公儀方を裏切った武将ですが、脇坂家はこの家康書状によって助かったわけです。
 

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