関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1996 朝日新聞朝刊の記事「関ヶ原 創作だらけ?」1

<<   作成日時 : 2017/08/10 16:02   >>

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 6日付の朝日新聞朝刊の「文化の扉」に「関ヶ原 創作だらけ?」と題する記事が掲載され、関ヶ原合戦についての白峰旬氏の見解が大きく取り上げられていました。通説では「東軍は小早川秀秋の裏切りにより勝利。秀秋は躊躇したが、家康に鉄砲を撃ちかけられて攻撃を始めた」とされていますが、「秀秋の裏切りは開戦直後。鉄砲を撃ちかけられた事実もない」という白峰氏の見解が紹介されています。
 この秀秋の裏切りが開戦直後という根拠について、記事では「石川康通と彦坂元正という家康方の武将が合戦の翌々日に書いた連署状には『戦いを交えた(開戦した)時、小早川秀秋・脇坂安治・小川祐忠・祐滋の4人が(家康に)お味方して裏切りをした』とある。イエズス会の日本報告集にも裏付ける記述があるので、小早川が開戦直後に裏切り、その結果、石田方が総崩れに陥ったとみられる」こと、「『問鉄砲』の話も合戦直後〜江戸時代前期には記載がなく、中期以降の軍記物『関原軍記大成』などに初めて登場する」ことが挙げられています。
 記事では触れられていませんでしたが、秀秋の裏切りが開戦直後であったという根拠として、白峰氏は島津家史料、「当代記」、「舜旧記」の記述なども挙げられています(「新解釈 関ヶ原合戦の真実」【宮帯出版社】など)。この点については、拙ブログでも取り上げました。
 秀秋の動きが怪しいということは、三成ら豊臣公儀方も把握していたはずで、そういう秀秋が9月14日に松尾山に勝手に陣を置きましたから、三成らは秀秋を牽制するために大垣城を出て関ヶ原に移動したというのが中井俊一郎氏の見解です。これは20年程前から唱えられているもので、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ)にも記されています。「西軍が大垣から関ヶ原に転進したのが秀秋の『謀反』に備えるものであったということは」、「同時代史料にもそれをうかがわせる記述があることがわかっている」などと。
 「秀秋の『謀反』」という点については、白峰氏の「新解釈 関ヶ原合戦の真実」には、9月17日付の「吉川広家自筆書状案」の記述が取り上げられています。
 すなわち、「小早川秀秋は逆意が早くもはっきりする状況になったので、大垣衆(大垣城にいた諸将)は、山中の大谷吉継の陣は心元なくなったということで、(大垣城から)引き取った(移動した)」などと。
 これも以前、拙ブログで取り上げたことですが、桐野作人氏の講演会「謎解き 関ヶ原合戦」でも、「板坂卜斎 慶長記」の中に、三成らが大垣城から関ヶ原に移動したことについて、「子細は筑前中納言(小早川秀秋)殿むほん(謀叛)と風聞候。仕置いたすへきとて被ㇾ出候由」という記述があることが紹介されていました。
 そういうことからしても、秀秋が開戦直後から裏切ったというのは、充分ありうる話だと云えます。
 なお、白峰氏の同書では、関ヶ原転進の理由について、「敵部隊の捕捉撃滅を狙って城から出撃し、決戦に持ち込む」という「当時の軍事的セオリーに従った作戦」を採ったのではないかということも指摘されています。
 

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