関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1997  中井俊一郎氏の講演「石田三成ー事績と書状からみるその人柄ー」3

<<   作成日時 : 2017/08/11 10:57   >>

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写真は観音寺本坊の入口のところで売られていた三成関連本を6日に撮ったものです。向かって左側に並んでいるのは、オンライン三成会編「三成伝説 決定版」(サンライズ出版)です。その右側に中井俊一郎氏の「石田三成からの手紙」(同出版社)も平積みにされています。太田浩司氏の「近江が生んだ知将 石田三成」も松本匡代氏の「石田三成の青春」(同出版社)もありました。一番右側に並んでいたのは「長浜ものがたり大賞コレクション」ですが、この本の存在は知りませんでした。今度買って読んでみたいと思います。
 さて、観音寺で行なわれた、中井氏の講演「石田三成ー事績と書状からみるその人柄ー」ですが、三成の「公正」を示すものとして、「掟書」の他に、年代不詳(文禄4年以降)8月23日付の今井清右衛門尉宛三成書状が取り上げられていました。これは9年前に発見されたもので、文面に嶋左近の名が出てくるので、新聞で大きく取り上げられました。この書状で、三成は重臣の嶋左近からも誓詞をとり、年貢率を家臣にも守るように指示し、不正行為を禁じていると説明されていました。家臣にも公正さを求めていたわけで、それは検地の時も変わりませんでした。
 今回の九州旅行で、鹿児島の尚古集成館にも行きましたが、そこに島津領検地の時に使われた三成の検地尺が展示されていました。複製は長浜市歴史城歴史博物館などで見ていますが、本物を見るのは初めてでした。1尺の長さを×で示し、そこに三成の花押が記されています。島津領検地の折は、三成自身は下向せず、家臣に行なわせましたが、こういう検地尺を使うように指示を出し、検地の公正さを求めたわけです。゜
 三成の「公正」さを示すものとして、もう1通、慶長3年(1598)5月付の家臣である大音新介宛の三成書状が取り上げられていました。この書状は「私」より「公」を重んじるもので、内容は三成に筑前筑後を与えるという秀吉の内意を断り、佐和山城主にとどまることを大音に知らせるものです。その辞退理由について、書状には、「(京近くの要衝である)佐和山に置ける人もなく、身近にて用事を申し付けられる人も少なくなるので、我らはこのまま(佐和山にとどまること)になります」と記されています。この筑前筑後は小早川秀秋の所領であったもので、秀秋は越前に転封になりましたが、そのこともその書状に記されています。
 この秀秋の転封は、 三成の讒言によるものだという説がありますが、中井氏はその説に否定的見解を述べられていました。すなわち、秀秋転封は、朝鮮の役による失態がもとになっているという通説に対して、秀秋の転封はその前から決まっていたもので、朝鮮の役とは関係がないと指摘されていました。また、この書状には、「このことを父と妻にも伝えます」とも記されており、三成は大事なことを家族よりもまず家臣に伝えていることも触れられていました。この書状は、中井氏の「石田三成からの手紙」でも取り上げられ、このあたりのことも含めて詳しく解説されています。
 

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