関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 旅行記94 石田三成の実像1988 九州の三成ゆかりの地巡り1 正澄の兜・杵築城の重要性 

<<   作成日時 : 2017/08/02 15:22   >>

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 昨日まで3泊4日でオンライン三成会の人2人と一緒に九州の三成ゆかりの地を巡る旅に行ってきました。フェイスブックでもその時の写真を一部載せています。
https://www.facebook.com/toshiyuki.hisatomi.7

 大分空港で昼前に合流し、レンタカーを借りて、まず杵築(木付 きづき)城へ行きました。ここには石田三成の兄の正澄の兜が展示されています(上記の写真)。オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)には、この兜の写真が掲載され、この兜について次のように説明されています。
 すなわち、「浅井家や豊臣家に仕えた鳥取城主・宮部善祥坊継潤(みやべぜんしょうぼうけいじゅん)の次男である宮部豊景(とよかげ)が、関ヶ原の戦いの後の佐和山城攻めの徳川軍に属し、正澄を討ち取ったという。徳川家康より正澄愛用の兜を下賜されたという。後に杵築城主となった能見(のみ)松平氏に仕えた。先祖ゆかりの品として代々宮部家に伝えられた」と。
 宮部家の子孫の方が、杵築城にこの兜を寄贈されました。この兜の説明掲示板では、上記のような説明に加え、次のような記述もありました。
 「文禄2年(1593)に豊臣秀吉によって、太閤検地が実施され、宮部継潤が杵築城に移住して、豊後北部4郡(国東、速見、玖珠、日田)の検地奉行となった」と。
 宮部継潤一族と杵築城との因縁めいたものを感じます。私は正澄の兜を見るのは初めてだったので、感慨深いものがありました(豊臣家の桐紋も付いています)が、この杵築城が豊後の重要拠点であったこともここに来て改めて知ることができました。
 杵築城について、「三成伝説」には、次のように説明されています。
 すなわち、「大友氏2代親秀の六男親重が、建長2年(1250)木村氏を称して築城したのが起源である。朝鮮の役により大友家が滅亡したことにより、木村氏17代、344年間にわたる統治が終わった。後に前田玄以、杉原長房、細川忠興、小笠原忠知が城主を務め、正保2年(1645)に能見松平英親が3万2000石で城主となり、以降10代まで227年間治めた」などと。
 杵築城のパンフレットには、豊臣政権時代、「前田玄以・宮部継潤・杉原長房・早川長敏などの名前が確認、または伝わっているが、文献上確認できるのは杉原長房である。長房は豊臣秀吉正室北政所の従兄弟にあたる」と説明されています。豊臣政権も杵築城を重要視していたことの表れです。
 慶長5年(1600)2月、大老の家康は細川忠興に杵築城を領地として与えたため、関ヶ原の戦いの際、三成ら豊臣公儀方(いわゆる西軍)の意向を受けた大友義統によって、杵築城は攻められることになります。
 

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