関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像1989 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」49

<<   作成日時 : 2017/08/03 21:39   >>

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 白峰旬氏から、8月6日(日)の朝日新聞朝刊の「文化の扉」欄において、関ヶ原のテーマが扱われ、その中で白峰氏のコメントが掲載されるというお知らせをいただきました。どのようなコメントが掲載されるのか、今から楽しみにしています。
 さて、白峰氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「義演准后日記」の9月5日条には、大津城攻めについて、次のように記されています。葉
 「大津城は(豊臣公儀の)敵になったので、(大津城攻めのために)石山より笠取坂へ人数(軍勢)が通った。(これは)前代未聞のことであり、驚き入るものである」と。
 この記載についての、白峰氏の解説は次の通りです。
 「義演が家康側を豊臣公儀の敵ととらえている点は興味深い」と。
 在京公家や僧侶などにとっては、関ヶ原の戦いまでは三成ら奉行衆・毛利氏・宇喜多氏などを豊臣公儀方と捉えていたことがわかります。
 「時慶記」の同日条には、「大津(城)のことは世上に騒がしい」と記されています。
 2年前に開催された「大関ヶ原展」には、「大津城絵図」が展示されていましたが、図録には次のようなことが記されています。
 「画面の右上に『大津之御城図 慶長5年9月3日 京極宰相高次御籠城也其図』と記されているところから、関ヶ原合戦の折に高次が籠城した大津城の様相を想定して描かれたものである。直線的な掘り割りの描き方などは実際の大津城近辺の地形とは異なるが、北に琵琶湖につき出た形の本丸を配し、東には『キョウシウ(香集)丸』、西には伊予丸を有し、三の丸から二の丸までが描かれた様相は往時をうかがわせる。
 反旗を翻した京極高次に対して、石田方は毛利元康や立花宗茂ら総勢4万といわれる大軍で大津城を包囲する。対する高次の手勢はわずか4千程度であったという。寡兵の大津城であったが、それでも9日間持ちこたえ、関ヶ原合戦に向かうべき軍勢を多く足止めさせた」と。
 大津城を攻撃していたため、関ヶ原の戦いに間に合わなかった武将として、「大関ヶ原展」の「立花宗茂像」の解説には、元康や宗茂の他、「小早川秀包・桑山一晴・多賀秀家・筑紫広門・宗義智等」の名が挙げられています。 また同解説には、「関ヶ原合戦において宗茂は、千3百人の軍役のところ4千人の軍勢を率いて出陣した」と記されています。
 確かに大津城攻撃軍が、関ヶ原の戦いに参加しておれば、戦いの状況も大きく変わったかもしれません。宗茂の勇猛さは、文禄の役の際、碧蹄館の戦いで奮戦し、味方を勝利に導いたことからもわかります。もっとも、こういう戦略を立てたのは三成だという中井俊一郎氏の見解があります。
 

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