関ヶ原の残党、石田世一の文学館

アクセスカウンタ

zoom RSS 旅行記96 石田三成の実像1991 九州の三成ゆかりの地巡り3 大友義統に旧領が与えられる2

<<   作成日時 : 2017/08/05 11:57   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

 
画像
 写真は杵築城の中にある石塔や五輪塔、石仏などの石造群を撮ったものです。この地域にあったものをまとめてここに置いてあり、全部で170余基あり、市指定文化財になっています。
 杵築城はもともと木付城という字を書きましたが、江戸時代、「3代藩主松平重休のときの将軍からの朱印状に木付の文字が杵築と書き違えられていたことから杵築となった」ということが、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)に記されています。城の係員もそういう趣旨の説明をされていました。
 したがって、秀吉の時代は木付城だったわけですが、関ヶ原の戦いの際、細川忠興の領地であった木付城は、秀頼を推戴する、三成ら奉行衆・毛利・宇喜多の二大老によって構成された豊臣公儀方によって大友義統に与えられたという見解を白峰旬氏は「新『関ヶ原合戦』論」(新人物ブックス)の中で示されていることを拙ブログで前述し、その根拠として挙げられているものを取り上げました。その続きです。
 太田一成が8月13日付で木付城の松井康之に宛てた書状もその根拠として挙げられています。その内容は、「木付城を受け取るように(大坂の)奉行衆から命じられたので、昨日(上方より国許の豊後臼杵へ)下ったことを報じ、(大坂の)奉行衆の折紙を松井康之に進上するので、その返事により重ねて御意を得たい旨を伝えた」というものです。
 また加藤清正が8月28日付で松井康之・有吉立行に宛てた書状に、「『其城』(=木付城)のことは、秀頼様より大友義統へ与えたので、大友義統は上関【かみのせき】(周防)辺りまで下ってきた、との報告があった」という記述も取り上げられています。
 さらに松井康之が8月28日付で細川家家臣に宛てた書状に、「大坂の奉行衆より大友義統へ当郡(豊後国速見郡)が与えられ、中国地方まで大友義統が下ってきた」という記述があることも挙げられています。
 「しかし、松井康之は木付城の明け渡しを拒否したまま、その後、石垣原(いしがきばる)合戦がおこなわれた」と白峰氏の同書に記されています。
 細川忠興は関ヶ原の戦いの後、家康により豊前一国と豊後二郡を与えられていますから、関ヶ原の戦いの前に、豊臣公儀方によって改易されていたという事実はほとんど知られていません;し、私もこの白峰氏の同書を読むまでわかっていませんでした。
 われわれは杵築の城下町を散策した後、大分市の戸次川(へつぎがわ)古戦場に向かいました。ここは秀吉に派遣された千石、大友、長宗我部、十河らによって構成された豊臣軍が、天正14年(1586)12月、島津軍に敗北した戦いの跡地であり、この戦いでなくなった武将たちの墓があります。秀吉自身が九州攻めに向かうのは、この翌年のことであり、三成もそれに従っています。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
旅行記96 石田三成の実像1991 九州の三成ゆかりの地巡り3 大友義統に旧領が与えられる2 関ヶ原の残党、石田世一の文学館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる