関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像1992 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」50

<<   作成日時 : 2017/08/06 21:15   >>

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 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「義演准后日記」の9月6日条には、次のような記載があります。
 「大坂より軍兵が当所(醍醐)へ来た。陣取りをすることへの気遣い(懸念)がある」と。
 「時慶記」の同日条には、次のように記載されています。 
 「大津城へ毛利輝元が人数(軍勢)を遣わして、城を受け取る予定である、とのことである。烽火(のろし)があがった」と。
 この記載についての白峰氏の解説は次の通りです。
 「大津城受け取りと烽火があがったことは関係するのか?」と。
 この記載について、光成準治氏の「関ヶ原前夜」(NHK出版)には「毛利輝元が人数(軍勢)を遣わして」とあるのは、「(毛利)元康の派兵を指している」と指摘されています。
 光成氏の同書には、その根拠として、清水景治(清水宗治の子)に宛てた井上春忠(小早川隆景の旧家臣)の書状の記載内容が挙げられています。 すなわち、「高次の東軍への同心に対し、毛利軍は兵力不足から当面大津の町に待機し、輝元とともに毛利元康の援軍を待って攻撃をしかけることとしている」と。
 周知のように、清水宗治は備中高松城の城主で、秀吉によって水攻めにされ、最後は毛利家との和睦のため自害した人物です。
  元康の出陣に関しては、「北野社家日記」の9月7日条に次のように記されています。
 「大津(城主)の京極高次が心変わりをした、とのことで、毛利元康が(大津へ)出陣した」と。
 「北野社家日記」同日条には、「今日、昨日、大津が焼ける」という記載があります。
 「焼けた」ということに関しては、「言経卿記」の同日条にも、「大津の町近辺が昨日・今日放火された」と記されています。この記載について、白峰氏の解説では、「伏見城の場合も同様であるが、城攻めの際には攻城側が放火している点に注意したい」と記されています。
 「時慶記」の9月6日条にある「烽火」という記載について、ひょっとして、烽火ではなく、実際は放火による煙ではなかったのではないかという気がします。もっとも、「烽火」については、そういうことが記載されている史料が他にないのかどうかも含めて、今後の検討課題と思われます。

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