関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1994 中井俊一郎氏の講演「石田三成ー事績と書状からみるその人柄ー」2

<<   作成日時 : 2017/08/08 10:11   >>

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 写真は米原の観音寺の本堂への参道を6日に撮ったものです。本堂は石段を上がった上にあります。道端に「三成道」の幟が建っています。「映画 関ヶ原に学ぶ 初志貫徹の美学」という副題が付いています。観音寺で行なわれた、「戦国無双」タクシーの出陣式も中井俊一郎氏の講演「石田三成ー事績と書状からみるその人柄ー」も田附清子氏との対談も、そのイベントの一つです。
 さて、中井氏の講演ですが、秀吉が忍城の水攻めに固執していたことを示すものとして、6月12日付の三成宛秀吉朱印状、6月20日付の三成宛秀吉朱印状、7月3日付の浅野長吉宛秀吉朱印状、7月6日付の上杉景勝ら宛秀吉朱印状が挙げられていました。
 これらの書状は、中井氏の「石田三成からの手紙」(サンライズ出版)の中でも取り上げられていますので、詳しくは触れません。また、いかにこの時水攻めにするための堤を作るのに日数と費用がかかるかについても、中井氏の講演で、具体的な数字を挙げて説明されていましたが、このことについても、中井の同書で詳しく述べられています。三成の年間収入の7倍を超える金額であり、とても三成だけで賄えるものではなく、秀吉が水攻めの方針を打ち立てた証左だと指摘されていました。またほとんどが平野である広大な土地を、水攻めにすることの大変さにも触れられ、それがわかっていた三成は、そういう意味でも水攻めに反対だったということも述べられていました。中井氏の同書では、秀吉が忍城を水攻めにするように命じたのは、関東の武将たちに秀吉の力を見せつける「政治的パフォーマンス」だったと記されています。
 三成の人柄について、講演会では、「真摯」の次に「公正」が挙げられていました。それは「原理原則を重視、筋を通す生き方」であり、その根拠として「領内掟書、検地・内政に見られるルール厳正化」が挙げられていました。  掟書は文禄5年(1596)3月1日に出されたもので、代官が勝手に百姓を人夫として使うことを禁じるなど、えこひいきや裁量を排除していること、「百姓が迷惑する仕儀があれば、奏者なしに目安をもって直接訴訟するように」と記され百姓からの直訴を認めていること、百姓と代官との間に、年貢控除率の違いがあれば、協議してそれを定めるように努め、それで決まらなければ「稲を刈り三つに積み分けて籤ひきにし、二つを代官がとり、一つを百姓がとるように」と述べていることなどが説明されていました。しかし、三成は公平性を重視しているものの、領民に必ずしも優しい領主ではなく、それは年貢率を多い場合は三分の二を取っていることでもわかるとも指摘されていました。

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三成道 何と素敵な響きなんでしょうか!思い返せば3年前、まだ私が元気だった頃、たった一人で誰もいない昼下がりの観音寺に行ったことを思い出しました。懐かしい思い出です。
tokebi
2017/08/08 23:29
tokebiさん、コメントありがとうごさいます。観音寺の本坊で「三成ガチャ」もあって、一度やってみたのですが、出てきたのは「三成道」の字が入ったキーホルダーでした。
 私が母や家族と石田町と観音寺を最初に訪ねたのは20年程前ですが、その時もどちらも静かでひっそりとしていました。まだ世間があまり三成に注目していなかった時代です。
石田世一
2017/08/10 18:50

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