関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1995  中野等氏「石田三成伝」60  唐入り2 島津家と三成

<<   作成日時 : 2017/08/09 19:04   >>

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写真は薩摩の出水(いずみ)城跡付近を7月31日に撮ったものです。出水城は秀吉の九州攻めの際、三成が博多の商人である神屋宗湛と茶会を行った場所です。今回の九州旅行のうち、出水の町めぐりについては後述します。
さて、中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、唐入りに関しての、島津家と三成との関わりにも触れられています。細川幽斎と三成に充てた島津義久の書状の中で、「検地の実施や名護屋城普請の役負担に応じない出水の忠辰を、『御迷惑』と述懐している」ことが取り上げられています。
 出水島津家について、中野氏の同書では、次のように解説されています。
 「出水島津家は、薩摩出水を本拠とする島津家の分家で、戦国期には一時、島津家の嫡流を凌ぐほどの勢力を誇った家である。代々が薩摩守を名乗ったことから、『薩州家』とも称される。義虎の代に島津義久に服従し、この頃は義虎の嫡子忠辰(ただとき)が当主の地位にあった。忠辰は、豊臣政権に対しては非協力的な態度をとり、役負担などに応じない姿勢をみせていた」と。
 こういう状況では、確かに幽斎と三成が、「この問題に主体的に関わっていく」のも当然という気がします。大名への介入ということになりますが、島津家の取次としての幽斎と三成の役目は、大名を豊臣政権に取り込み、大名の基盤を強くすることでした。 
 中野氏の同書には、「秀吉は10月になると、義久に代わって義弘に名護屋に下向するように命じ」、「指示の詳細は石田家中の安宅(あたぎ)秀安(三郎兵衛尉)によって伝えられた」と記されています。
 安宅秀安は三成の命令を島津側に伝える人物として、しばしば登場する人物です。文禄3年(1594)に行なわれた島津領検地の時もそうでした。中野氏の同書には、安宅が朝鮮に渡っていた義弘に検地の詳細を告げるとき、「安宅秀安の態度は相変わらず高姿勢であった」と記されていますが、それは三成の意向を受けてのことなのか気になります。安宅は相良氏にも書状を出しており、三成の安宅への信頼度は高かったのかもしれません。
  中野氏の同書では、「12月2日、三成は島津義久・義弘の両者に充てて『人質番組』を発する」が、「この『番組』に従って、島津家重臣の近親者が順に京都に上リ、人質たることを強いられることになる」と記されています。人質を取るのは、秀吉の政策であり、その政策は、徳川幕府によって受け継がれました。
 関ヶ原の戦いの際、三成ら奉行衆・毛利・宇喜多などによって構成される豊臣公儀方が人質作戦を採ったものの、細川ガラシャが自害したため、その作戦を非難する者が現れますが、当時は普通にされていたことで、その非を云々することは一面的だと思います。人質ということで云えば、家康はこの前にすでに江戸に人質として前田利家の妻であったまつを取っていますから、家康の方が早かったと云えます。
   

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