関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2229「特別研究集会」20 十文字健氏報告「郡山城天守台からみえる豊臣期の築城の様相」3

<<   作成日時 : 2018/04/01 10:43   >>

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 「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」の、十文字健氏の報告「郡山城天守台からみえる豊臣期の築城の様相」の中で、天守の瓦についても述べられていました。
 天守台の調査ではコンテナ550箱以上の遺物が出土し、ほとんどが瓦であったこと、礎石上面から出土した鯱瓦や豊臣大坂城と同笵の軒丸瓦、聚楽第に類例のある軒平瓦など16世紀末頃の瓦で、築造年代が豊臣政権期であることを示していること、天守台の盛土からは鯱瓦やコビキB技法の瓦などが出土したこと、現時点での天守礎石の年代を文禄〜慶長初頭とみるべきと考えること、この時期には豊臣秀保の名護屋城からの帰陣、伏見慶長の大地震など大きなトピックスがあったこと、金箔押しの菊丸瓦が出土し、郡山城にも同時期の他の主要な城郭と同様、金箔で飾られた屋瓦を葺いた天守が存在していたことが明らかになったことなど。
 「教材研究集会資料集」には、「16世紀末〜17世紀初頭の郡山城関連年表」が掲載されていますが、豊臣秀保が名護屋から帰陣したのは文禄3年(1594)10月だと記されています。出典は「多聞院日記」です。名護屋から出陣したのは文禄元年(1592)3月のことで、これも出典は「多聞院日記」です。秀保が秀長の死を受けて、郡山豊臣家の跡を継いだのは、天正19年(1591)1月のことですが、4年後の文禄4年4月に秀保は亡くなり、郡山豊臣家は断絶します。
 慶長元年(1596)に起こった伏見大地震の被害に関しては、「天守をはじめ、柵なども破損した」という近衛前久書状の記述、「郡山城は崩壊した」というルイス・フロイスの「イエズス会日本報告集」の記述が挙げられています。この時の郡山城の城主は増田長盛でした。なお、この地震で、指月伏見城も倒壊し、秀吉は新たに木幡山伏見城を築城します。
 増田長盛は、関ヶ原の戦いで三成方に属しため、戦後、改易になります。10月に「郡山城の建物等を伏見城に移築した」という「大和記」の記述が「郡山城関連年表」に掲載されています。伏見城は、三成方の武将が攻撃し、三成も督戦していますが、8月1日に落城しています。伏見城の建物はほとんどが焼失したと思われ、再建するための資材を郡山城から運んだわけです。それだけ、家康は伏見城の重要性を認識していたわけで、実際、家康が征夷大将軍の宣下を受けたのは伏見城でした。秀忠、家光も同じく伏見城で将軍の宣旨を受けています。郡山城の資材を伏見城で使うということは、それだけ郡山城の建物が立派だった証かもしれません。なにしろ、秀長百万石の城でしたから、それだけ壮大だったのではないでしょうか。

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