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zoom RSS 三成の実像2239 「特別研究集会」30 古川匠氏報告「聚楽第跡の発掘調査と表面波探査」5

<<   作成日時 : 2018/04/11 11:06   >>

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 「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」の古川匠氏の報告「聚楽第跡の発掘調査と表面波探査」の中で、表面波探査の結果に基づいた考察の続きです。
 本丸の南には本丸南堀を間に置いて南二ノ丸がありました。南二ノ丸も本丸、北ノ丸と同様、周囲を堀で囲まれています。南二ノ丸の西堀は、本丸の西堀のすぐ南にあります。南二ノ丸の北西隅に土橋があることが判明したことも述べられていました。
 また本丸のすぐ西には、本丸西堀をはさんで西ノ丸がありました。本丸の南にくっついた形ですが、やはり周囲を堀で囲まれていました。西ノ丸の規模は、これまで想定されていたよりも東西幅が狭く、方形ではなく、縦に細長い形をしていたことが判明したと説明されていました。
聚楽第の位置関係をまとめますと中心に本丸があって、天守がその北西にあり、本丸の北には北の丸(これは秀次時代に作られました)、西南に西ノ丸、南に南二ノ丸があり、それぞれ堀で隔てられていました。いずれの曲輪も周囲が堀で囲まれていたわけです。
 聚楽第の正面は南にあり、後陽成天皇の聚楽第行幸も本丸南門から入城したと考えられると説明されていました。根拠は、堺市博物館蔵の「聚楽第行幸図」です。
 聚楽第に大広間があったことを示すものとして、同時代史料の「輝元公上洛日記」が挙げられ、そこには毛利輝元が聚楽第の秀吉を訪問した際に大広間で謁見した様子が記載されています。また、江戸時代初期の「匠明」には、大広間の始まりとして聚楽第が記されていることも述べられていました。
 毛利輝元が初めて上洛したのは、天正16年(1588)7月のことです。中野等氏の「毛利輝元の居所と行動(慶長5年9月14日以前)」【思文閣出版】には、そのことについて次のように記されています。
 「22日に入洛、妙顕寺に宿す。24日に聚楽訪問、25日参内して従四位下侍従に叙任。28日再び参内、参議に任官する。8月に入ると豊臣氏一族と交歓し、洛中の諸所を訪ねる。この間『於聚楽御屋敷被仰付之候』と、京に屋敷を与えられている(『山口中世3』「湯浅家文書」『閥閲録』「湯浅権兵衛家文書」)」などと。
 一方の三成は、5月27日に初上洛してきた島津義弘を大坂に迎え、取次としてその対応に追われています。聚楽第は秀吉がそれらの大名を迎える京の場としての役割を果たしていたわけです。、
 聚楽第は長方形であり、同様の構造の城は輝元が築城した広島城などいくつかの城があるとの中井均氏の見解も取り上げられていました。
 

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