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zoom RSS 三成の実像2241 「特別研究集会」32 乗岡氏「宇喜多秀家の備前岡山城」2 大西泰正氏の書との違い

<<   作成日時 : 2018/04/13 10:35   >>

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 「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」の乗岡実氏の報告「宇喜多秀家の備前岡山城」の中で、天守の竣工は慶長2年(1597)のこととされていると説明されていましたが、大西泰正氏の「シリーズ【実像に迫る】 宇喜多秀家」(戎光祥出版)の中で、異なる見解が示されています。
 すなわち、「天守の竣工は、惣国検地の時期=文禄3年のことであったらしい」と。それは森俊弘氏の見解であることが示されています。このあたりは、今後の研究課題でしょう。
 また乗岡氏の報告では、岡山城の大改修については、次のようなことも指摘されています。
 「城地の石山地区から岡山地区への東遷や旭川の付け替えなども示されるが、これは考古学的成果と照らすと鵜呑みにするのは問題があることが判ってきた」(特別研究集会資料集)と。
 この点についても、大西氏の同書で、次のような異なる見解が示されています。
 すなわち、「山陽道を岡山城下に通したり、旭川の流れをおおよそ現在のように整えたのも同時期のことらしい。旭川改修には、『直属奉行人』中村家正があたったという(『吉備前鏡』)」と。
 このあたりも実際、どうだったのかは今後の研究に俟ちたいと思います。
 乗岡氏の報告では、次のような秀家書状も紹介されていました。
 すなわち、「1593年(文禄2)に城下の天瀬地区で武家以外の居住を禁止したり、旧家を壊して二階建ての家を建てるように命じた指令が文禄の役の陣中にあった秀家から出されている」と。
 この秀家書状の内容については、大西氏の同書でも取り上げられていますが、5月2日付のものであり、上記の内容に加えて、「『大河』(旭川)へ架橋するため(のちの京橋)川の東側にも町作りを許可することなどが指示されている」ことも記されています。 
 この頃、朝鮮半島にいた秀家以下の日本軍は明使節を受け入れ、漢城からの撤退を開始しています。その時期について、文禄2年4月18日(19日とも)だと大西氏の同書に記されています。三成の方は増田長盛・大谷吉継・小西行長と共に日本に向かう明使に同行し、5月6日までに釜山に到着しています(中野等氏の「石田三成の居所と行動」【思文閣出版】)。三成らは明使を伴い、名護屋に行き、再び釜山に戻るなど、いろいろと対応に追われていますが、最終的に9月23日に帰国しています。秀家の帰国はそれよりやや遅れて10月です。
 また大西氏の同書には、「文禄4年5月には、岡山城下以外での酒造りを禁止し、酒造業者には岡山城下への集住を命じた。産業統制である」ということも記されています。

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