関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2243 高橋陽介氏の新説に基づく関ヶ原の戦いの陣跡巡り2  吉継陣跡

<<   作成日時 : 2018/04/15 10:29   >>

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 写真は関ヶ原の不破関資料館の入口付近を10日に撮ったものです。
 この上のところに資料館がありますが、高橋陽介の見解に基づくと、この付近が大谷吉継の陣跡があったところだと思われます。この場所は、台地になっており、旧中山道から見れば、確かにかなり高低差があります。陣を置くにはふさわしい場所という気がしました。
 高橋氏の見解によれば、三成はこの西にある藤下に陣を置いており、島津義弘は、現在大谷吉継の陣跡とされている山中に陣を置いたとされていますから、大谷吉継は東から攻めてくる家康方の最前線に位置していたことになります。
 吉継隊が最前線に位置していたというのは、白峰旬氏の見解と同様です。ただし、布陣していた場所については特定されていません。もっとも、白峰氏は吉継の背後にいた小早川秀秋の位置について、従来、脇坂安治が布陣したとされていた小高い丘の可能性が高いと指摘されています(秀秋は布陣していた松尾山から戦いの時にはここまで移動していたと云います)。
 この従来、脇坂安治が布陣していたとされる台地は、石田晋一氏の説によると、「農地の整備に伴う遺構である可能性が高い」と指摘されています(高橋氏の「関ヶ原新説(西軍は松尾山を攻撃するために関ヶ原へ向かったとする説)に基づく石田三成藤下本陣比定地『自害峰』遺構に関する調査報告」(縄張り図作成 石田章氏)」)。
 吉継が三成方の布陣のもっとも東に位置していた根拠について、島津家家臣の神戸久五郎、山田晏斎、黒木左近兵衛、新納忠元らの記述いずれにおいても、「9月15日に最初に戦い、最初に壊滅したのは大谷吉継の部隊である」という点が挙げられています(高橋氏の同書)。吉継が関ヶ原エリアに進出していたという白峰氏の見解の根拠も、島津家家臣の史料です。
 吉継の陣跡が上記の場所にあったという根拠として、高橋氏の同書には、次の点が挙げられています。
 「戸田氏鉄の後年の記述によると、大谷吉継の陣地は藤川(現在の藤古川)の川辺であった。ただし藤川の西の藤下は石田三成の陣地であるため、大谷吉継の陣地は藤古川の東岸であったと考えられる」と。
 上記の資料館がある場所のすぐ西側に藤古川が流れており、そこを西に少し歩くと、藤下にたどり着きます。

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