関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2244 高橋陽介氏の新説に基づく関ヶ原の戦いの陣跡巡り3 三成陣跡

<<   作成日時 : 2018/04/16 10:07   >>

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 写真は関ヶ原藤下(とうげ)の自害峰にある土塁跡を10日に撮ったものです。高橋陽介氏の見解によれば、ここが三成の陣跡があったとされている場所です。根拠は、徳川家康の側近の戸田氏鉄の後年の記述である「戸田左門覚書」です。
 すなわち、「治部少本陣は松尾山の下自害か岡と云所に陣す、所の者不吉也と云ふと云々、」と。
 この場所には、「自害峯の三本杉」があり、壬申の乱で敗れた大友皇子(弘文天皇)の首が葬られていると伝わっています。壬申の乱は関ヶ原の藤下も戦いの場所になり、大海人皇子と大友軍が戦闘しましたが、大海人皇子が勝ち、その勢いで大津京を攻めて陥落させ、大友皇子は自害しました。その首を部下がここに運んだと云います。三本杉が首を埋めた印だということで、三本杉が鎖で囲われています。この三本杉のところには以前、来たことがありますが、その上には上がったことがありませんでした。そこから上は道がないので、斜面を何メートルか登らねばならず、苦労しました。
 上はかなりの広さがありましたが、木々が茂り、地面には枯葉も一杯落ちており、少し歩きにくい状態でした。それでも、自害峰の縄張り図を見ながら、南側に土塁跡がいくつかあるのが確認できました。この場所が三成の陣跡であったとすれば、確かに「南面の松尾山方面を志向した陣地である」との高橋の見解にうなずけます。
 自害峰をさらに南に進むと、東海道新幹線をまたぐ歩道橋に出ます。こういう道があることは今まで知りませんでしたが、その橋の南側はやはり台地が続いており、そこが高橋氏の見解によれば、宇喜多秀家・小西行長の陣跡になります。そこも鬱蒼としていましたし、この後、山中の大谷吉継の陣跡とされているところ(高橋氏の見解では、島津義弘の陣跡)まで行きたいと思っていたので、時間的余裕がなく、今回は宇喜多秀家・小西行長陣跡は残念ながらパスしました。
 自害峰から降りる道がないかと探したのですが、どこも急斜面であったため、三本杉のところを下りました。高橋氏の見解によれば、自害峰が三成の陣地の前備であり、後備が街道(旧中山道)を挟んだ北側にあり、三成は後備にいたと云います。その根拠は、島津家家臣の後年の記述に「石田三成は街道の北側に居た」とあることが挙げられています。もっとも、この後備があった場所は「現在は住宅地になっていて、遺構は残っていない」と高橋氏の中に記されています。そういうことで、ここには足を踏み入れませんでしたが、北側にある住宅地は高台に建っていて、陣を置いても不自然ではない場所になっています。

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