関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2245高橋陽介氏の新説に基づく関ヶ原の戦いの陣跡巡り4 宇喜多・小西隊の陣跡

<<   作成日時 : 2018/04/17 11:06   >>

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 写真は東海道新幹線の線路の上に架かる橋のところから関ヶ原藤下(とうげ)の自害峰の南側を10日に撮ったものです。この橋の後ろ(南側)に、高橋陽介氏の見解によれば、宇喜多秀家・小西行長の陣跡があった高台があります。
 従来の説によると、小西行長の陣跡は北天満山、宇喜多秀家の陣跡は南天満山にあったとされており、関ヶ原に陣跡碑が建っており、私も何度となく足を運んでいます。また従来の説では、その東の小池に島津義弘陣跡、その北東の笹尾山に三成陣跡があったとされています。
 この従来の説では、島津家家臣史料の記述とは合わないと高橋氏は「関ヶ原新説(西軍は松尾山を攻撃するために関ヶ原へ向かったとする説)に基づく石田三成藤下本陣比定地『自害峰』遺構に関する調査報告」(縄張り図作成 石田章氏)」)の中で、次のように指摘されています。
 すなわち、「島津家家臣史料によると、宇喜多隊の陣地は島津隊の陣地より東に位置した。島津隊と宇喜多隊の間は約440〜550メートル離れていた。島津隊と宇喜多隊の間には池があった。また、島津隊の陣地から、宇喜多隊の陣地は、間に丘陵があって戦闘の様子が見えなかった」と。
 高橋氏の新説では、島津隊の陣地は、従来、山中の大谷吉継隊の陣地があったとされる場所であり、そうだとすると、位置と云い距離と云い、「間に丘陵があっ」たことと云い(この場合の丘陵とは自害峰のこと)、島津家家臣史料の記述と適合します。
 白峰旬氏の「関ヶ原の戦いにおける石田三成方軍勢の布陣位置についての新解釈ーなぜ大谷吉継だけが戦死したのかー」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号)の中で、島津家家臣史料における三成方軍勢の布陣ついて記されている箇所がまとめられていますが、その中で次のような「神戸久五郎覚書」の記述が取り上げられています。
 「(東国衆は)岡山より関ヶ原へ来た。(家康方の軍勢は)まず一番に大谷吉継の陣に攻めかかり、大谷吉継も応戦して6〜7度の合戦をしていたところに、上の山より小早川秀秋が逆心をして白旗を指させて横入りをしたので、大谷吉継の人数(軍勢)は一人も残らず討ち取られた。宇喜多秀家の陣へは(家康方の)別の大将が攻めかかって一戦をしたが(島津義弘の陣の)前に岡があって、この方の陣(島津義弘の陣)よりは(戦いの様子が)見えなかった。宇喜多秀家の陣は崩れて(『山』は『崩』の誤記か?)、その敵がこの方の陣(島津義弘の陣)へ攻めかかってきた。東は石田三成の陣に(敵の)猛勢が攻めかかって一戦をして、石田三成の陣も崩れた。その敵もこの方の陣(島津義弘の陣)へ攻めかかってきた。この方の陣(島津義弘の陣)は二番備であった」と。
 この記述からは、岡があって宇喜多秀家の戦闘の様子が見えないこと、大谷吉継がまず壊滅したこと、その後、宇喜多秀家隊、石田三成隊が崩れたこと、島津義弘隊は二番備えであったことなどが記されています。
 

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