関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2247 高橋陽介氏の新説に基づく関ヶ原の戦いの陣跡巡り6 義弘陣跡

<<   作成日時 : 2018/04/19 10:18   >>

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 写真は、山中の若宮八幡神社を10日に撮ったものです。ここの上に、高橋陽介氏の見解によれば、島津義弘の陣跡がありました。従来、この付近は大谷吉継が陣を置いたとされているところです。このことについて、高橋氏の「関ヶ原新説(西軍は松尾山を攻撃するために関ヶ原へ向かったとする説)に基づく石田三成藤下本陣比定地『自害峰』遺構に関する調査報告」(縄張り図作成 石田章氏)」)には、次のように記されています。
 「松尾山に対する西軍の二番備である島津隊の陣地は、自害峰を通過し、それよりさらに西へ約165メートル進んだ場所に位置した。島津義弘の陣地は東山道から約110メートル北に位置した」と。
 その根拠として、島津家家臣の史料である「新納忠元勲功記」「黒木左兵衛・平山九郎左衛門覚書」「山田晏斎覚書」「神戸五兵衛覚書 木脇休作働之次第」「神戸久五郎覚書」の記述が挙げられています。
 このうち、「黒木左兵衛・平山九郎左衛門覚書」については、白峰旬氏「関ヶ原の戦いにおける石田三成方軍勢の布陣位置についての新解釈ーなぜ大谷吉継だけが戦死したのかー」【(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号】)の中で、次のように現代語訳されています。
 「夜明け前に関ヶ原へ到着し、備場を見合わせたところ、石田三成の備があった。それ(石田三成の備)より右の方へ一丁半程(約163.5m)間があって、この方の軍衆(島津豊久の軍勢)は夜明けに備をなした。島津豊久は先備であった」と。
 また「神戸五兵衛覚書 木脇休作働之次第」は、「神戸五兵衛覚書写」であり、白峰氏の同書で次のように現代語訳されています。
 「(東国衆が)大谷吉継の陣に攻めかかった。この方(島津義弘)の御陣の前は宇喜多秀家(の陣場であり)、東は石田殿が受け取った陣場であった。この方(島津義弘)は二番備であったところ、大谷吉継は戦死し、宇喜多秀家、石田三成(の陣場は敵に)追い崩され、この方(島津家)の御陣に(敵の)猛勢が攻めかかってきた時(後略)」と。
 高橋氏の見解通り、三成の陣が自害峰にあり、島津義弘の陣が現在大谷吉継の陣があった場所にあったとするなら、島津義弘の陣の東に三成の陣があったというのは位置関係からいって納得できます。ただ、上記の史料では、義弘の陣の前に宇喜多秀家の陣があったと記されているので、この点は高橋氏の新説とは一致しません。このあたり、史料の記述が正しくないということなのか、さらなる検討が必要だと云えます。
 

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