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zoom RSS 三成の実像2230 「特別研究集会」21 小谷徳彦氏報告「東海道の拠点城郭 水口岡山城」1 

<<   作成日時 : 2018/04/02 10:34   >>

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 「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」の、小谷徳彦氏の報告「東海道の拠点城郭 水口岡山城」では、水口岡山城の歴史について次のように説明されていました。
 水口岡山城は天正13年に中村一氏が大岡山(現在の古城山)に築城されたとされ、その典拠として享保19年(1734)にまとめられた「近江輿地志略」が挙げられていました。石垣の石材は三雲城、用材や瓦などは矢川城から調達したと伝えられ、その典拠として「矢川雑記」「水口藩士某覚書」が挙げられていました。
 一氏は天正13年5月に岸和田城から甲賀へ入ったとみられ、その典拠として「顕如上人貝塚御座所日記」が挙げられています。ちなみに、顕如上人は信長に大坂本願寺を引き渡した後、貝塚に移っています。
 甲賀に入った一氏は水口の河合寺へ掟書を出していることが、「大鳥神社文書」に記されています。
 一氏が甲賀に入る前の同年4月に、羽柴秀吉が甲賀衆を改易した「甲賀ゆれ」が起こり、秀吉は甲賀衆から領地を取り上げ、新たな支配者として一氏を送り込んだことになると説明されていました。
 一氏が拝領したのは六万石だということが、「真鍋真入斎書付」に記されていることも述べられていました。
 天正18年に中村一氏の所領は増田長盛に引き継がれますが、その典拠として「長浜城歴史博物館所蔵文書」が挙げられ、当初は3万石の所領であったことが「前川道平氏所蔵文書」によってわかり、文禄4年(1595)までには5万石になり、同年に長束正家に引き継がれましたが、その典拠として「佐竹家旧記」が挙げられていました。
 このように見てくると、石田三成が水口城主になったという形跡は全くありません。よく知られている話に、三成が水口4万石の城主であった時に、嶋左近にそのうちの1万5千石ないし2万石で召し抱えたということがありますが、それは正しくないことがわかります。このことは、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)の「近江・水口」の章の中で、詳しく述べられています。
 もっとも、私自身は、三成は城主でなかったとしても、一時期、水口・甲賀に所領を持っていたのではないか、あるいは秀吉の直轄領の代官に任じられていた可能性があるのではないかと思っています。それが嶋左近を召しかかえる話と結びついたのではないでしょうか。
 小谷氏の報告では、「長束正家書状」の中に「豊臣政権が大溝城の天守を解体し、その部材を水口へ運ぶように命じている」と記されていることから、長束正家が城主だった時代に、水口岡山城で何らかの改修が行われたと推測されています。
 

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