関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2248 高橋陽介氏の新説に基づく関ヶ原の戦いの陣跡巡り7 義弘陣地2

<<   作成日時 : 2018/04/20 18:20   >>

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 写真は、山中の松尾山眺望地を10日に撮ったものです。若宮八幡神社のところを上がった西側にあり、東側には大谷吉継の陣跡碑があります。高橋陽介氏の新説によれば、ここは島津義弘の陣地があったとされている場所です。
 上記の写真の手前に見えている線路は東海道本線、その向こうに見えている道路が、旧中山道であり、その向こうのこんもりした丘に島津豊久の陣地があったというのが、高橋氏の新説です。向こうに聳えるのが、小早川秀秋が陣を置いたとされる松尾山ですが、松尾山に対して、前備が豊久、二番備が義弘であったというわけですが、豊久がここに陣を置いたという根拠として、高橋氏の「関ヶ原新説(西軍は松尾山を攻撃するために関ヶ原へ向かったとする説)に基づく石田三成藤下本陣比定地『自害峰』遺構に関する調査報告」(縄張り図作成 石田章氏)」【東海古城研究会「城」第224号】の中で、豊久は街道の南に布陣したという「新納忠元勲功記」の記述、豊久が先備、義弘が二番備であったという「黒木左兵衛申分」の記述が挙げられています。
 高橋氏の同書では、結論として、「西軍の陣地は440〜550メートルほどに密集した陣形であり、笹尾山〜松尾山間・南北約3キロメートルにおよぶ長大な『鶴翼の陣』等ではない」と記されています。
 こういう見解は、すでに白峰旬氏の「関ヶ原の戦いにおける石田三成方軍勢の布陣位置についての新解釈ーなぜ大谷吉継だけが戦死したのかー」【(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号】)中で、次のように示されています。
 「石田三成方軍勢の主力本隊(石田三成、宇喜多秀家、小西行長、島津豊久、島津義弘など)は、ある程度密集して布陣していたと考えられ、その意味では通説の布陣図に見られるような鶴翼の陣(幅広いエリアに布陣したイメージ)とは真逆な布陣の仕方だったことになる」と。
 三成が高橋氏の新説通り、自害峰に布陣したとするなら、「戸田左門覚書」に記されているように「不吉也」とみんなは思ったかもしれません。なにしろ、大友皇子の首が埋められていると云われている場所であり、しかも敗者になって命を落としましたから、これから戦いを始めるのには縁起が悪くふさわしくない場所ではないかと思ったに違いありません。
 しかし、三成は合理主義者でしたから、そういう縁起が悪いなどということはあまり気にしなかったのかもしれません。三成が8月9日に佐和山城から出陣して、大垣城に向かう時、嶋左近は大悪日だから、出陣を延期するように三成に助言したものの、三成はそれに耳を貸さずに出陣したという話があります。これは「関ヶ原軍記大全」に記されていることであり、この記述にどれだけ信が置けるかはわかりません。しかし、こういう話が残っていること自体、三成が縁起などはを気にしなかった人物と言えるのではないでしょうか。自害峰への布陣も同じだったかもしれません。

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