関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2249 高橋陽介氏の新説に基づく関ヶ原の戦いの陣跡巡り8 陣城跡の遺構

<<   作成日時 : 2018/04/21 11:16   >>

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  写真は関ヶ原藤下にある自害峰の上の削平地を10日に撮ったものです。「削平」とは、地面が平らに削られているところであり、高橋陽介氏は、昨年BSーTBSで放送されたテレビの「諸説あり 関ヶ原の戦い 第二弾」の中で、自害峰に陣城があったとする証拠の一つとして、「削平」が見られることも挙げられていました。番組では、土を盛り上げて作った「土塁」跡があること、人工的に崖を作った「切岸」があること、「堀切」の存在がなどが取り上げられていました。
 上記の番組では、高橋氏はよじ登らずに上に上っていましたが、それほど苦労せずに上に行く道があるのだと思われます。自害峰陣跡の縄張り図でも、南側の上から下に下る矢印の道が記載されていますが、よくわかりませんでした。今度訪ねて、道をよく確かめたいと思いますし、この自害峰の南の宇喜多秀家・小西行長が陣を置いたとされている丘も探索したいと思っています。
実際、藤下や山中を歩いてみて、そこに宇喜多隊、小西隊、三成隊、島津隊の軍勢がいたとするなら、確かに場所的に密集して布陣していたという白峰旬氏の指摘(白峰氏は三成が藤下に布陣していたことを主張しておられるわけではありませんが)もうなずけます。
 上記の番組では、福島正則・黒田長政ら家康方軍勢が三成方軍勢を攻撃してきたのは小早川秀秋が手引きしたからだということが高橋氏によって指摘されていました。その根拠は、慶長5年9月17日付の吉川広家自筆書状案の記述です。
 その番組では、三成らよりも東側にいた大谷吉継隊が、15日の夜明けに家康方軍勢と小早川秀秋軍勢に挟み撃ちにされて壊滅し、その後、午前10時ごろ藤下にいた三成らが家康方に攻められ、総崩れになったが、そうなったのは、三成らが徹夜で移動し、疲労困憊していたからだと説明されていました。
 三成方が総崩れになった理由については、、白峰旬氏の「関ヶ原の合戦」(『歴史群像』2017年10月号所載)の中で、次のように記されています。
 「石田方本隊の大垣からの転進と山中布陣の目的が、南宮山の毛利勢と連携して家康方を挟撃する態勢を取ることにあっとすれば、家康方主力が15日早朝に関ヶ原へ展開し、開戦となったことは想定外であり、不意を突かれた石田方は一方的に攻め込まれ、短時間で敗北してしまったのだろう」と。
 三成方の関ヶ原方面への転進は、二重の後詰(南宮山の毛利勢が大垣城の後詰)をしようとしたためであったというのが白峰氏の見解ですが、三成方の転進の理由、総崩れの理由については、高橋氏の新説の検討も含めて、今後の研究成果に期待したいと思います。


 
 

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