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zoom RSS 三成の実像2250 「特別研究集会」33 乗岡氏「宇喜多秀家の備前岡山城」3 本丸の変遷

<<   作成日時 : 2018/04/22 11:54   >>

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写真は宇喜多秀家時代の岡山城中の段の西辺石垣を2014年9月に撮ったものです。この石垣の写真は同年の9月21日付の拙ブログ記事に貼付しましたが、同じ石垣ながら違う角度から撮っています。中の段の階段を降りて見ることが出来ますが、ここに秀家時代の石垣が埋まっているのは、江戸時代の初めに城を造成する時、この石垣を埋め込んで中の段を北に大きく広げたからです。この石垣を埋め込んだ造成土からは金箔を押した桐の文様の瓦が出土しています。金箔瓦や桐紋瓦は、秀吉が一族や特定の大名、一部の家臣に使用を特別に許したものです。三成の居城であった佐和山城からも、金箔瓦ではないものの桐紋瓦が出土しています。
 さて、「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」の乗岡実氏の報告「宇喜多秀家の備前岡山城」の中で、本丸の構造の変遷について五期の段階に分けて説明されていました。
 それらの根拠として、2001年度に行われた中の段の発掘調査、1997年度の下の段の発掘調査、それらで発見された遺構の下層を掘り下げた結果、埋没石垣や堀の跡、建物礎石が重層的に検出されたことが挙げられていました。
 まず岡山城が建っている丘について、主丘が北から南東に延び、西にも一段低い尾根が延び、最高所は天守台の辺りで、標高は約20メートルであると述べられていました。 
 第1期は、宇喜多直家段階、2期は宇喜多秀家段階、3期は関ヶ原の戦いの後城主となった小早川秀秋段階、4期は小早川家の後、岡山城城主となった池田家の時代で大坂の陣までの段階、5期は大坂の陣の後のやはり池田家の段階。
 1期は、低い土塁や切岸主体で、丘の上に構築された土造りの曲輪が連結した構造であったこと。2期は、巨石を使用した高さ5メートルを越える石垣が構築され、石垣を基礎に瓦葺きの城郭建築が建てられた時期で、出土する大量の瓦には金箔瓦や五七桐紋瓦が含まれていること。中の段の発掘では、その前身曲輪の西辺をなした埋没高石垣や搦め手の廊下門の前身城門を示す遺構が発見され、下の段の発掘では、天守台石垣や本段南東高石垣が2期のものであったことが追認されたと説明されていました。
 このうち金箔瓦については、これまでに70点ほどが出土しており、秀家の時代の瓦の全体量としては多くないものの、地方大名の居城からの出土数としてはかなり多いと説明されていました。それだけ、秀吉は豊臣一門としての秀家に期待をかけていた証拠だとも云えます費えにり
 秀吉が金箔瓦を許したのは、一部の家臣や大名に限られており、岡山城に金箔瓦が多く出土しているのは、秀吉の秀家に対する期待の表れだと思われます。大老として取り立てられたのもそうです。秀吉の城である大坂城、聚楽第、伏見城にはむろん金箔瓦が使われていますし、一族の城である秀長の大和郡山城や秀次の八幡城でも使われています。真田昌幸の城である上田城でも使われています。
 秀家と同じ大老であった毛利輝元の城である広島城でも使われていますが、両城の共通性として、本丸以外の城門・櫓、二の丸や三之曲輪にあった建物でも金箔が掲げられていた可能性が高いことが指摘されていました。
  

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