関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2252 高橋氏「石田三成藤下本陣比定地『自害峰』遺構に関する調査報告」10 陣跡巡り9

<<   作成日時 : 2018/04/24 10:22   >>

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 拙ブログで報告したように、4月10日に高橋陽介氏の新説に基づいた関ヶ原の戦いの陣跡巡りをしました(廻り残したところもありますので、第一弾と考えています)が、高橋氏の「関ヶ原新説(西軍は松尾山を攻撃するために関ヶ原へ向かったとする説)に基づく石田三成藤下本陣比定地『自害峰』遺構に関する調査報告(縄張り図作成 石田章氏)」【東海古城研究会発行の「城」224号所載】の中で、縄張り図を作成した石田章氏について次のように記されています。
 「論者は石田章氏に、石田三成藤下本陣説を批判的な見地から検証していただくよう依頼した。同氏は城郭研究者としてのニュートラルな立場で遺構に関する調査をされ、縄張り図を作成された」と。
 高橋氏の見解に左右されず、石田氏が客観的に作成された縄張り図というわけです。この縄張り図を見ると、確かに丘陵になっており、南側に土塁などがあり、南の松尾山方向に兵を動かせる陣跡になっており、実際に現地に足を運んでそれを確認しました。
 また「伝大谷吉継陣地跡」の縄張り図については、高橋氏の同書に次のようなことが記されています。 
 すなわち、「論者が島津義弘山中陣地であると提唱する『伝大谷吉継陣地跡』に関しては、既に『岐阜県中世城館趾総合調査報告書 第一集』において中井均氏が作図されたものがあるが、今回作図されたものは、陣地の意義のとらえ方、陣地の範囲のとらえ方が異なる。論者の説を立証するためには、石田章氏の作図された縄張り図が必要不可欠であることをここに付記する」と。
 「陣地の意義のとらえ方、陣地の範囲のとらえ方が異なる」という点は、その通りだと思います。その縄張り図を見ると、島津義弘陣地跡と比定される若宮八幡神社の北側に、確かに東西に伸びる堀があり、「井上主膳覚書」の「薩摩衆大方後之堀に逃入候」の記述と一致しています。義弘の陣地も南を向いていたことがわかりますが、大谷吉継の陣地とされているところですから、従来の説でも、吉継が小早川秀秋の裏切りに備えて布陣していたという解釈がされてきましたから、南を向いていたのは当然と云えます。このあたりも改めて現地に運んで確認しました。
 藤下にある宇喜多秀家・小西行長陣地比定地の縄張り図を見ると、東西に長いかなり広い平坦な丘陵地になっており、多数の軍勢を置くことができるのがわかります。南側に東西に走る土塁がありますし、東端に堀切があるのも確かめられます。ここは今回、足を踏み入れていません。
 「伝・脇坂安治陣跡」の縄張り図では、北に土塁があることがわかります。ここが陣跡であるのか、石塚晋一氏の見解の通り、農地の整備に伴う遺構であるかは、今後の検討課題ですが、ここも今回は廻れませんでした。
 

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