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zoom RSS 三成の実像2254 「特別研究集会」36 乗岡氏「宇喜多秀家の備前岡山城」6 城下町の変遷

<<   作成日時 : 2018/04/26 11:38   >>

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 写真は岡山城の搦手門である廊下門を2014年9月に撮ったものです。岡山城へはここから入りましたが、本丸の北西にあり、南にある中の段に出ます。廊下門は門扉の上に敵を迎え撃つための部屋を備えており、部屋は本段と中の段を結ぶ城主専用の廊下としても使用されていたことから、廊下門と呼ばれていました。廊下門が造られたのは江戸時代の池田忠雄の時代ですが、搦手門は宇喜多秀家の時代からありました。
 この3月に行われた「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」の乗岡実氏の報告「宇喜多秀家の備前岡山城」の中で、5期の池田忠雄が岡山城主だった時が本丸の完成期であり、軍事機能の増大と政治機能の調整が果たされたと述べられていました。
 具体的には、中の段では「5期には現存の月見櫓などが建てられて櫓の数や密度が一気に増大し、下の段でも時期を追って櫓の数や密度が増大し」、「城門も枡形なども大型化し、折れが複雑になって横矢の機能も高まり、迎撃可能範囲や高低差も増大する」。「中の段が飛躍的に拡大して表書院=明治維新まで続く政庁が成立」し、「城主住居としての本段と政庁が建つ中の段の曲輪機能の分化、あるいは政庁=政治機能が大きく増大した」(特別研究集会資料集)と。
 池田忠雄が岡山藩主になったのは元和元年のことであり、大坂の陣前後のことです。豊臣家が滅んで当面の脅威がなくなったとは云え、一方で城としての軍備の強化は必要で、もう一方で平和な時代のもと、しっかりと政務を行う必要性も生じたからでしょう。
 また乗岡氏の報告の中で、城下町についても、秀家の時代と江戸時代になってからの街割りや方向軸がやや異なっていると指摘されていました。そのことについて、「特別研究集会資料集」には、次のように記されています。
 「都市としての拡大をモデル化すると、およそ文禄年間の製品とみられるコビキA技法(2式)の瓦の集中出土は二の丸以内ないしは三之曲輪以内に限られているのに対し、三ノ外曲輪域〜その外では慶長半ば以降のコビキBの瓦、あるいは17世紀前葉以降の陶磁器しか出土しないことによって端的に示される。秀家期での城下町域=実際に人が住んだ区域はおよそ中堀以内と展望できる」と。
 現在の岡山の中心市街地の街路は「基本的に江戸時代の城下町の街路を踏襲している」ことも述べられていましたが、全国各地の城下町はほぼ江戸時代の街路を踏襲しているものと思われます。
 三成の佐和山城は廃城となったために、佐和山の城下町は失われ、代わって彦根に新たな城下町が形成されましたし、佐和山に近い鳥居本に宿場町が生まれ、その街並みが現代に続いています。岡山城は関ヶ原の戦いの後も残りましたが、城下町は微妙に変わったわけで、他の城はどうだったのか、細かく見てゆきたいと思いました。

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