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zoom RSS 三成の実像2255 「特別研究集会」37 乗岡氏「宇喜多秀家の備前岡山城」7 瓦生産

<<   作成日時 : 2018/04/27 10:35   >>

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 写真は岡山城の中の段の北西の隅に建っている月見櫓を2014年9月に撮ったものです。廊下門から中の段に入ると、すぐに見えます。廊下門は再建ですが、月見櫓は、江戸時代の池田忠雄が建てた当時のものです。
 この3月に行われた「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」の乗岡実氏の報告「宇喜多秀家の備前岡山城」の中で、宇喜多秀家時代の瓦生産について、次のように指摘されていました。
 「秀家による2式期には、都市としての岡山に付属する大規模な瓦師集団=瓦町が成立したと考えられる。すなわち、2式の瓦は本丸だけでなく、上級武士の屋敷街である二の丸をはじめとする城下町でも広範に出土し、その量の膨大さがとうてい遠隔地からの搬入品に重きを負っていたとは考えられないことに加え、同笵品や同じ特徴をもった製品の分布の中心が岡山城にあることなどから判断できる。具体的な生産遺構は未確認であるが、生産地の最有力候補は城下町の南西部にあって後に『瓦町』・『七軒町』と呼ばれた一帯である」(特別研究集会資料会資料集)と。
 岡山城の瓦は1式から4式の時期にわかれますが、秀家は2式の時代です。、2式の技法上の特徴はコビキA技法に尽きるということも述べられていました。コビキA技法(手法)の瓦とは、中井均氏の報告「佐和山城と城下町の構造ー大手を考えるー」で触れられていたように(拙ブログでも取り上げましたが)、「糸引痕を残す古い製作技法の瓦」であり、それに対して、「鉄線引痕を残す新しい技法の瓦」がコビキB技法です。
 ちなみに、これも中井氏の同報告で述べられていたように、佐和山城の瓦は両方が発掘されていますが、「コビキA手法の瓦が丹羽長秀、堀秀政段階に用いられたもので、コビキB手法の瓦が堀尾吉晴、石田三成、井伊直政段階に用いられたものと考えられる」と指摘されています。
 堀秀政が佐和山城主となっていたのは天正13年(1585)までですから、佐和山でコビキA手法の瓦が作られたのはそのあたりまでのこととなります。一方、八幡城の秀次居館にはコビキBの瓦が使われており、山上の曲輪群ではコビキAの瓦が使われているということが、小谷徳彦氏の報告「東海道の拠点城郭 水口岡山城」の中で指摘されていました。八幡城の築城は天正13年のことですから、天正13年あたりが手法の移行期なのかもしれません。もっとも、秀家が岡山城の大改造に着手したのは天正16年であるとの可能性が指摘されていました(森俊弘氏の見解)から、そのあたりまでコビキA手法が使われていたと考えられますし、城によってコビキB技法に移行するのは時間差があったと見るべきなのかもしれません。
 

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