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zoom RSS 三成の実像2233特別研究集会」24小谷徳彦氏報告「東海道の拠点城郭 水口岡山城」4

<<   作成日時 : 2018/04/05 18:40   >>

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 「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」の、小谷徳彦氏の報告「東海道の拠点城郭 水口岡山城」で、水口岡山城の城下についても考察が加えられていました。
 水口は古くから街道が通過する場所であり、のちに「近世東海道」となる東西道路と、「伊賀道」「多賀彦根日野道」と呼ばれる南北道路の結節点が「西追手」の南側にあたると説明されていました。八幡山城も佐和山城も「城に隣接する形で主要街道が存在する」という下高大輔氏の見解がありますが、水口岡山城も同様だったことがわかります。 
 もっとも、水口岡山城の絵図は残っていないものの、江戸時代に描かれた絵図には、水口岡山城の跡地である古城山の南側には、三本の並行した道があり、紡錘形の通称「三筋町」と呼ばれていると説明されていました。
 水口岡山城の城下町について、「特別研究集会資料集」には次のように記され、報告でも同様のことが述べられていました。
 「江戸時代の絵図に描かれる町割りは、三本の東西道路を基準とする両側町となっており、東西に貫く街道が町割りの基礎になっている。城下町の範囲は、絵図や文献史料にみられた寺院など位置や、慶長6年(1601)時点で円福寺の門前が水口宿の『江戸口』、西の『京口』は石橋であったとされることから、当時の城下町の範囲は古城山の南側の部分と推定される、さらに、豊臣時代の城下町は方形街区であったことも想定されている。なお、享保19年(1734)ごろに成立する『聞書』には『外堀は東町通り南裏にから堀の跡有』と記され、城下町の外側を囲う惣構を形成する堀の存在をうかがわせる記述があるが、現況地形では外堀の痕跡は確認できない。(中略)。
 現状では、南側山麓に残る水路だけが堀の痕跡と確認できるだけであるが、明治25年の地形図や昭和38年の航空写真には城の北西部に三日月状の池があり、堀の痕跡とみられる」などと。
 同「資料集」には、水口岡山城の「城郭の範囲と城下」の図が掲載されていますが、城下町範囲として城の南側の「三筋町」のあたりが推定されています。その北側に堀の推定ラインが描かれていますが、その内側(山側)が山麓居館・家臣団屋敷推定範囲と記されています。中央付近の堀を渡ったところに桝形の大手があり、そこを山上に向かって延長すると、中村一氏が構築した西櫓台の位置に到達し(それが矢印で図に示されています)、「ビスタ」が形成されていたと説明されていました。「ビスタ」は眺望、見通しという意味で、大手からは山上の西櫓がよく見上げることができたわけです。八幡山城も佐和山城も、水口岡山城と同様、堀の内側に山麓曲輪があり、城道を登って山上曲輪群にたどり着くという構造になっています(下高氏の見解)。
 

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