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zoom RSS 三成の実像2235 「特別研究集会」26 古川匠氏報告「聚楽第跡の発掘調査と表面波探査」1 

<<   作成日時 : 2018/04/07 14:31   >>

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 「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」の古川匠氏の報告「聚楽第跡の発掘調査と表面波探査」の中で、聚楽第の変遷について、「特別研究集会資料集」には次のように記されていますし、報告でも同様に説明されていました(前半部分)。
 「(前略) 天正11年(1583)に築城した大坂城を本拠地とした秀吉は、京都での居所として、当初、妙顕寺(妙顕寺城)を用いていた。
 天正12年(1584)7月に関白に就任し『豊臣』と改姓した秀吉は、平安宮跡地の『内野』に聚楽第を造営した。造営開始は、『多聞院日記』、『宇野主水日記』、『兼見卿記』の記述から、天正14年(1586)6月下旬と考えられる。諸国大名が在京して普請に従事し、同6月には作事のために四国、東国から大量の材木が運搬された(『多聞院日記』)」と。
 天正15年(1587)1月27日に秀吉は『内野御屋敷』、『内野』等と呼ばれていたこの城館をはじめて『聚楽』と号した。天正15年(1587)3月には諸方の庭石、植木を徴収し(『多聞院日記』)、庭園の造営を行っている。そして同年9月13日、九州平定を完了した秀吉は大坂から聚楽第へ遷った。
 聚楽第の築城は、後陽成天皇の行幸を最大の目的とした事が、現在、通説となっている(櫻井1971など)。秀吉は、本丸内に後陽成天皇を迎える御所を設けた(『聚楽行幸記』)。また、聚楽第は関白秀吉の政庁として活用され、毛利氏、北条氏などの国内勢力や、ポルトガル副王、李氏朝鮮などの外国使節との対面に用いられた」と。
 秀吉が関白に就任した直後に、三成は治部少輔に任じられています。後陽成天皇の聚楽第行幸は天正16年4月14日から18日にかけて行われています。この行幸の際、秀吉は禁裏まで天皇を迎えに出ますが、その前駈を秀吉の直臣左右37騎が配され、左列の先頭として増田長盛、右列の先頭として三成が務めています。
 聚楽第は秀次事件の後破壊され、その遺構は街中に埋まっており、当時をしのべるものは、二ヶ所に建っている聚楽第跡碑と、聚楽第にあったとされる梅雨の井などだけです。この井戸も枯れていますが。
 古川氏が担当した平成24年度の本丸南部の発掘調査によって、本丸南面城壁石垣が発見され、このことは新聞記事にもなりましたが、城内の遺構はすでに削平され、都市開発により大規模な破壊を受けていたと述べられていました。
 古川氏は表面波探査が、埋没する聚楽第堀跡の把握に有効であることが判明したと述べ、その検査結果が、地区別に詳細に説明されていました。

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