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zoom RSS 三成の実像2236 「特別研究集会」27 古川匠氏報告「聚楽第跡の発掘調査と表面波探査」2

<<   作成日時 : 2018/04/08 10:35   >>

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 「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」の古川匠氏の報告「聚楽第跡の発掘調査と表面波探査」の中で、聚楽第の変遷についての後半部分について、「特別研究集会資料集」には次のように記されており、報告でも同様の説明がされていました。
 「天正19年(1591)1月、聚楽第の周囲には諸国大名の屋敷が築造され(『兼見卿記』)、聚楽第から内裏までの空間に東西に連なった。同2月に御土居構築が開始され(『時慶記』)、聚楽第を中心とする『洛中惣構』が完成する。
 天正19年(1591)12月に秀吉が隠居し関白の位と聚楽第を甥の秀次に譲ると、文禄年間に秀次によって聚楽第の増改築がなされ、北之丸が新築されている(中井2001)。
 文禄4年(1595)、秀次の失脚により聚楽第は破却される。文献史料の記載内容から、聚楽第および大名屋敷の建造物は多くが伏見に移築された、と見られる(『日本西教史』、『当代記』、京都市歴史資料館蔵『文禄4年7月28日付 豊臣氏奉行衆連署奉書』)。破却後の聚楽第跡は居住が制限され、芸能興行の場となった(『当代記』、『舜旧記』)。江戸時代になるとこの土地の粘土が『聚楽土』と称され、壁土や楽焼の陶土に積極的に用いられた事から土地の改変が著しく、現在の聚楽第跡地の地表面には聚楽第を示す遺構は存在しない」と。
 諸国大名の屋敷については、同「資料集」に浅野文庫「諸国古城之図」の「山城 聚楽」の部分図が載っており、そこに本丸の周囲にある屋敷の大名の名が掲載されています。
 また文禄4年7月28日付の豊臣家奉行衆連署奉書については、中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)に掲載されています。奉行衆とは、長束正家、富田一白、増田長盛、石田三成、前田玄以、宮部継潤であり、充所は美濃国の城主である佐藤方政(才二郎)です。この書状について、次のように現代語訳されています。
 すなわち、「確実を期して申し入れる。よって、今度石川貞清(備前守)に美濃国内で渡された榑【くれ】木(規格化された建築用材、とくに板屋根を葺くのに用いる板)については、来る8月10日以前にすべて近江国の朝妻【あさづま】に到着させるように(秀吉が)命じられた。聚楽にあった御殿などはすっかり伏見へお移しになられ、今回一斉に御立直しになられるので、万一作事に手ぬかりなどがあれば、重大な過失となる。確実に承知されたい。
 なお、速やかに領国に下り、御油断なく急いで(榑木)の輸送にあたるよう」と。
 聚楽第に代わって伏見城築城に慌ただしく取りかかっている奉行衆の姿が目に浮かびます。なお、文中に出てくる石川貞清は犬山城主であり、木曽代官領も務めています。貞清の妻は大谷吉継の妹であり、貞清の弟の一宗の妻は宇多頼忠の娘で、三成とは相婿の関係になります(白川亨氏『石田三成とその一族』)。
 

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