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zoom RSS 三成の実像2237 「特別研究集会」28 古川匠氏報告「聚楽第跡の発掘調査と表面波探査」3

<<   作成日時 : 2018/04/09 10:34   >>

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 「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」の古川匠氏の報告「聚楽第跡の発掘調査と表面波探査」の中で、表面派探査の結果に基づいた考察が詳細に述べられていました。
 聚楽第の本丸の北に北之丸があり、その北側には従来は何もないと考えられてきましたが、聚楽第全体を取り囲むように北外堀があったと推定されていました。「特別研究集会資料集」には、「平成24年調査トレンチ位置図と従来の聚楽第跡復元案」が掲載されていますが、北外堀は書かれていません。また新創社編「京都時代MAP 安土桃山編」(光村推古書院)にも聚楽第の外北堀は描かれていません。
 表面波探査結果によれば、北外堀があったのは、北限が笹尾町通あたりであり、東西に通じると共に、西側はジグザグな形になって西外堀の近くまで通じています。東側も元大宮通付近で南下して、東外堀あたりまで通じています。
 東外堀も今まで未解明でしたが、今回の表面波探査によって、東外堀の存在が明らかになりました。黒門通を中心として北は一条通、南は上長者通あたりまで南北に通じています。むろん、この東外堀は上記の「平成27年度調査トレンチ位置図」や「京都時代MAP」にも掲載されていません。
 西外堀に関しては、従来、北は東西俵屋町周辺の東西の堀、南は土屋町通の南北の堀が存在がすることが想定されていましたし、上記の「平成27年度調査トレンチ位置図」にもその西外堀は掲載されています。もっとも、「京都時代MAP」には、南の西外堀は掲載されていますが、北の西外堀は掲載されていません。北の西外堀の存在は発掘調査によってわかったと云いますから、「京都時代MAP」が出版された時は、まだ発掘調査されていなかったのかもしれません。
 注目すべきは、南外堀の存在が表面波探査によっては確認されなかったことです。上記の「平成27年度調査トレンチ位置図」には、南外堀が二ヶ所掲載されています。東側と西側であり、後者は西外堀とつながって併せてL字形になっています。
 しかし、表面波探査によって、これら今まで南外堀だと考えられてきた土地は、地表面は窪んでいるものの、深い堀跡が埋没している可能性は低く、単なる凹地であると指摘されていました。この凹地の中に、松林寺があり、山門から境内までかなりの段差が見られることから、聚楽第の外堀跡と考えられ、拙ブログでもそのように取り上げたことがあります。しかし、そういう従来からの捉え方を考え直さねばならない、表面波探査の結果です。 要するに、外堀としては、北、東、西にあるものの、南にはなかったということになります。南に外堀がないのは、南側が正面であったということと関係しているのかもしれません。
 

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