関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2259 「特別研究集会」40 乗岡氏「宇喜多秀家の備前岡山城」10 瓦の同笵関係2

<<   作成日時 : 2018/05/01 00:39   >>

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 写真は岡山城の鉄門跡の階段のところから下の段を2014年9月に撮ったものです。鉄門は復元されていませんが、不明門のすぐ南にあった門です。鉄門は秀家の時代はありませんでした。江戸時代は、下の段から階段を上り、鉄門をくぐって表書院に出ました。さらに不明門をくぐると、本殿御殿、天守に行くことができました。
  さて、この3月に行われた「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」の乗岡実氏の報告「宇喜多秀家の備前岡山城」の中で、瓦の同笵関係について述べられていましたが、昨日付ブログ記事の続きです。
 「第五は岡山城2式と山陰の富田城(島根県)の同笵関係で」、「岡山に居た工人の一派が山陰に移動し吉川広家による城郭整備に動員された可能性が考えられる。広家の妻は秀家の姉の容光院で、そういう伝手による可能性もある」と。
 容光院は夭折してしまいますが、そのことについて、大西泰正氏の「シリーズ【実像に迫る】宇喜多秀家」(戎光洋出版)で次のように記されています。
 「容光院は若くして病に倒れる。天正18年6月、容光院・秀家の母である圓融院は伊勢参宮のあと、彼女の『不例【ふれい】』のため京都に向かっている(『兼見卿記』)。翌年3月には名医曲直瀬道三(玄朔)が彼女の診療にあたり、翌月に入ると一時的に病状が好転するが、これに安堵した秀家の思いもむなしく、同月19日に21歳で死去した(『吉川家文書』等)」と。
 さらに大西氏の同書で次のような指摘がされています。
 「吉川広家夫人の早世がなければ、秀吉の死から関ヶ原での敗戦へ続く秀家の悲劇は、まったく違った様相を見せたと考えるのは筆者だけであろうか」と。
 広家は関ヶ原の戦いで家康寄りになり、南宮山で兵を動かさなかった武将ですから、秀家と姻戚関係が続いておれば、確かに広家の動静は違った可能性はあると思われます。 
 乗岡氏の報告では、「さらに岡山2式の1種は広島城(広島県)とも同笵関係をもつ。さらに、徳川期に入る4式では岡山城主領外の備中津寺遺跡や瀬戸内海を挟んだ讃岐の高松城や引田城と複数種に及ぶ同笵関係が確認され、政治性や工人の自主性の程度は未詳であるが、岡山からの商品としての搬出、あるいは一時的な出張製作があったものと思われる」と。
 ここでも岡山城の瓦が商品として搬出した可能性が指摘されているわけですが、それだけ岡山城の生産技術が高かった証拠かもしれません。興味深いのは、広島城との同笵関係もあるとの指摘です。共に豊臣政権の大老であり、両家のつながりを物語っている可能性があるのかもしれません。

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