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zoom RSS 三成の実像2268  「特別研究集会」47 奥井氏「伏見城跡調査成果」7 山内一豊・堀秀治屋敷跡

<<   作成日時 : 2018/05/10 16:14   >>

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 3月に行われた「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」の奥井智子氏の報告「近年の伏見城跡調査成果について」の中で、発掘調査された島津の北にある、桃山町永井久太郎において行われた発掘調査について、次のように説明されていました。
 「山内一豊もしくは堀秀政(堀久太郎の下屋敷)の屋敷地推定地及び伊達街道隣接地。伊達街道沿いに西面する石垣及び石組溝を確認。昭和63年に南隣接地も調査が行われており、石垣及び石組溝が確認されている。武家屋敷地の造成に伴う石垣の前面には伊達街道の道路面構築土を確認。また、石組溝は道路形成時に造られ同時に形成されたと考えられる」と。
山田邦和氏作成の豊臣期木幡山伏見城の城下町推定復元図を見ると、発掘調査された場所は、北に山内一豊屋敷、南に堀秀治下屋敷に当たる場所に、その西側に伊達街道が南北に通っています。山内一豊屋敷の道を挟んですぐ北側に伊達政宗の広大な屋敷がありました。
堀秀政は天正18年の北条攻めの際に病没し、その家督を秀治が継いでおり、伏見城築城はその後ですから、秀治下屋敷が正しいと云えます。
 堀秀治は秀吉の死の直前、上杉景勝の領地であった越後春日山城に転封され、景勝は会津120万石に移ります。関ヶ原の戦いの際、景勝は、旧領越後で一揆を起こしますが、秀治は鎮圧しています。
 この発掘調査地から北に100メートル余り行ったところの東西の地域も発掘調査されており、奥井氏の報告では次のように説明されていました。
 「上板橋通りの拡幅に伴う調査。西から山内土佐守、松平伊予守、永井右近太夫の屋敷地推定地。屋敷地北側に位置する北面を向く石垣及び石組溝を確認。この中で、北西隅角が3箇所、北東隅角が1箇所、屋敷地を区画する道や伊達街道の路面などを確認。石組溝の掘方に含まれる焼土や瓦などから、徳川期に再建された伏見城に伴う遺構であると判断されています」と。
 山田氏作成の豊臣期木幡山伏見城の城下町推定復元図には、これらの地域には山内一豊、その東に織田秀信屋敷が記載されていますが、その東は空白になっています。松平伊予守は、松平忠昌のことで、結城秀康の次男であり、後に元和の時代に福井藩主になっています。永井右近太夫は、家康の近臣である永井直勝のことです。大坂の陣の後、上野木幡藩主になっています。この発掘調査されたあたりは、徳川期に武家屋敷が拡大されたり屋敷替えがされたりしたのではないかと思われます。
 

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