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zoom RSS 三成の実像2269  「特別研究集会」48 奥井氏「伏見城跡調査成果」8 伊達政宗屋敷跡・土塁

<<   作成日時 : 2018/05/11 16:33   >>

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 3月に行われた「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」の奥井智子氏の報告「近年の伏見城跡調査成果について」の中で、桃山町正宗で行われた2箇所の発掘調査について、次のように説明されています。
 「伊達政宗の伏見城上屋敷及び北に築かれた伏見城惣構の土塁推定地。地山を生かし厚さ0.5〜1.0メートルの整地土で盛土することで、平坦面を形成。一定単位で粗砂層を挟みいれており、工程や作業単位を推測することができる。直径0.9〜1.2メートルの壺掘地業を伴う建物を確認。また土塁は構築単位が把握でき、敷地内の雛壇造成と土塁構築が同時に行われていることを確認」(特別研究集会資料集) と。
 桃山町正宗という地名は、伊達政宗の屋敷があったことにちなむものですが、山田邦和氏作成の豊臣期木幡山伏見城の城下町推定復元図を見ると、政宗の上屋敷はかなり広大でした。西は伊達街道、東は伏見城の北堀近くまであります。政宗屋敷の北から東側にはぐるりと総構の土塁が築かれており、その北側には空堀がありました。
 もう1箇所、桃山町正宗のJR奈良線沿いの南北の地域も発掘調査され、次のように説明されていましす。
 「伏見城惣構の土塁推定地。広範囲における断面観察をし、土塁の構築過程をし、土塁の構築過程を確認」(同資料集)と。
 上記の復元図によると、この土塁及びその北側の空堀はさらに西側まで続いており、空堀は川の近くで途切れますが、土塁の方は川に沿って南側に続いています。惣構だったことが改めてわかります。
 上記の発掘調査地から500メートル程西に行ったところに栄春寺があり、その境内に土塁跡が残っています。栄春寺のことは、伏見城の遺構としてオンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)でも取り上げました。総門は木幡山伏見城より移築されたものです。
 伏見城を惣構にしたのは秀吉時代であり、大坂城も同じでした。
 ちなみに、「三成伝説」で取り上げた京に残る伏見城遺構として、他にも桃山御陵内にある治部池(伏見城の治部少輔丸の北側の堀跡)、御香宮神社を取り上げています。御香宮神社の表門は、徳川期伏見城の大手門を移築したもので、境内には伏見城の石垣の残石もあります。
 「三成伝説」では取り上げていませんが、伏見城の石垣の残石は、桃山御陵参道のわきにも置かれていますし、京都市立桃山東小学校の敷地内にも復元されています。
 他にも西本願寺の唐門が伏見城の遺構であり、豊国神社の唐門ももとは伏見城にあったものだと云われていますが、確かなことはわかりません。京から離れたところでは、福山城の伏見櫓も伏見城から移築されたものです。長浜の大通寺も伏見城から移築されたものだと云われています。

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