関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2272 白峰旬氏「『関原首帳(福嶋家)』について」3 平時と同じ組編成

<<   作成日時 : 2018/05/14 18:38   >>

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 白峰氏の「『関原首帳(福嶋家)』について」 (別府大学史学研究会『史学論叢』第46号)の中で、「関原首帳」には各組頭の名前と、各組別に首を取った人物名と首の数が記されており、「組頭になるのは福島家の大身家臣が多かったということになろう」と指摘されています。その根拠として挙げられているのは、福島正則の広島城主時代の「福島家分限帳」に記されている組頭らの石高です。
 「関原首帳」と「福島家分限帳」の比較検討から、「平時における組編成がそのまま戦時における組編成に移行(スライド)できたと考えられ」、「各組の編成が記載されている江戸時代初期の分限帳は、戦時における備(そなえ)の編成をそのまま平時の編成に持ち込んだ形であったということになる」と指摘されています。その例として、肥後熊本藩主の加藤家の分限帳である「加藤侯分限帳」が挙げられ、類例として宇喜多秀家の時代の「浮田家分限帳」、黒田家(福岡藩)の慶長分限帳、元和分限帳があることが記されています。
 また「関原首帳」には「『自分之者共』あるいは『自分之侍』と記され、そのあとに名前が記された事例が9例ある」ことについて、「『自分之者共』というのは騎乗を許されない徒士(かち)身分の武士、『自分之侍』は騎乗を許された侍身分の武士という区分をしていると考えられる」と指摘されています。
 さらに「福島家家臣の若党が首取りをおこなったケースが6例ある」ことが指摘され、若党の定義についても記されています。すなわち、「江戸時代、武家の郎従で、徒(徒士)より身分が低く、足軽・小者・中間より上位にあった者」(国史大辞典)であり、「戦闘要員である若党は、武士としての処遇を受け」、「戦闘中は若党は主人の側から離れず、馬上で鑓をふるって敵に向かう主人の鑓脇〔やりわき〕(敵に向かっているときに無防備になる右側面)を守るのが任務とされていた」(日本史大事典)と。
 足軽や中間も首取りをしていることも指摘されています。
 三成の石田家には、分限帳などが残っていないので、各組頭の名前や誰がどの組に属していたのかわかりませんし、敗者ですから当然のこととは云え、首帳もありませんから、どれだけ首を取ったのかについても全くわかりません。しかし、騎馬武士、徒士身分の武士、若党、足軽、小者、中間などの区分があったのは福島家などと同じでしょうし、彼らも戦いに参加したことは確かだと思われます。
 三成隊の先鋒を嶋左近と蒲生頼郷(喜内)【一般に蒲生郷舎(さといえ)と云われていますが、実際の郷舎は関ヶ原の戦いの後まで生き残っており、別人です】が務めたとされていますが、それを一次史料でどこまで確認できるのかについては、今後の検討課題です。
 
 

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