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zoom RSS 三成の実像2274 朝日新聞記事「異説あり 千利休切腹してない?」1 中村修也氏の新説

<<   作成日時 : 2018/05/16 19:00   >>

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 14日付の朝日新聞朝刊の「文化の扉 歴史編」に「異説あり 千利休切腹してない?」という記事が掲載され、利休は切腹しておらず、九州まで逃げ延びていたという中村修也氏の見解が紹介されていました。
 それによると、「切腹させられたという従来説の根拠になっているのは、表千家四代の江岑宗左(こうしんそうさ)が1653年に紀州徳川家に提出した『千利休由緒書』」だが、「その成立は利休の『死』から60年以上経過しているうえ、年代などにも間違いが多く、一次史料としては信頼できない」と指摘されています。「さらには『このほかの【利休が切腹した】と書かれている史料もすべて後世のもの』だと指摘」されています。
 関ヶ原の戦いについても、従来の説は一次史料ではなく、後世の編纂史料、軍記物などに基づいているもので、最近は一次史料による見直しが進んでいますが、利休切腹も同じかもしれません。
 もっとも、中村説では、利休追放の背景には、三成ら奉行衆が、力を持った利休に対して不満を持っていたことがあったというふうに捉えられていますが、その見解は従来通りで、これには承服しがたいものがあります。このことについては改めて論じたいと思います。 
 利休が追放されたという点については、当時の日記には「逐電」したなどという記載があるだけで、切腹とは記されていないことが、中村氏の新説の根拠の一つとして挙げられています。
 すなわち、「勧修寺晴豊の日記」には、「利休のことであるが、曲事(くせごと)があり、逐電した(素早く逃げうせた)」とあり、「西洞院時慶の日記」には、「宗易(利休の法名)は逐電したとのこと」とあり、「伊達成実の日記」には、「宗易が(略)追放になっていたが、行方が知れなくなった」とあります。
 もっとも、「北野社家日記」には「成敗された」と記されているものの、このことについては、「別の盗賊の斬首の話を混同して書いた可能性があり、信用するには無理がある」というのが中村氏の見解です。記事にはこれ以上のことは記されていませんので、「別の盗賊の斬首を混同して書いた」ということがどういうことなのか、よくわかりません。中村氏の「利休切腹 豊臣政権と茶の湯」(洋泉社)には、もう少し詳しい説明がされているかもしれず、一度目を通してみたいと思います。
 一方、利休が生きていたことを示す史料として、三点挙げられています。
 一つは1592年5月に秀吉が母の大政所の侍女に送った書状の中に、「きのふりきうのちやにて御せん(膳)もあかり(昨日は利休の茶を飲んで食事もとって)」と記されていることが挙げられています。従来はこの箇所は、「利休好みの茶を飲んで」と解釈されてきましたが、「利休は生きていたと考える方が自然」と中村氏によって指摘されています。(続きは次回に)

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