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zoom RSS 三成の実像2275 朝日新聞記事「異説あり 千利休切腹してない?」2 中村修也氏の新説2

<<   作成日時 : 2018/05/17 22:01   >>

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 14日付の朝日新聞朝刊の「文化の扉 歴史編」に「異説あり 千利休切腹してない?」という記事が掲載され、利休は切腹しておらず、九州まで逃げ延びていたという中村修也氏の見解が紹介されていましたが、その続きです。
 利休が生きていたことを示す史料として、三点挙げられていますが、その二つ目です。
 1592年12月に秀吉が前田玄以に宛てた書状の中に、「ふしみのふしん(普請)の事りきうにこのませ候(そうろう)て(伏見城の建設のことは利休が好むようにデザインさせて)」と記されていることが挙げられています。従来はこの箇所は、「利休好みに合わせ、他の者にデザインさせて」と解釈されてきましたが、これも「利休は生きていたと考える方が自然」と指摘されています。
 3点目は、「利休の弟子で後に豊前小倉藩主となる細川三斎が利休の子の道安に豊前国300石を与えていること」が挙げられ、92年5月に大政所の侍女に送った秀吉の手紙の書かれている場所が肥前の名護屋城だったことと合わせて、利休が「少なくとも一時期は九州に滞在していたのではないか」と推測されています。
 利休が追放された経緯については、次のように指摘されています。
 「一次史料には、利休と秀吉が茶の湯を巡って対立したとの記録はない。追放の契機となった大徳寺の木像にしても、寄進の御礼に寺が安置したもので利休が責められるのは筋違いだし、奉行衆の不満を抑えきれなくなった秀吉が、『利休を切腹させたことにして、政権から追放した』というのが本当のところではないか」と。
 ここで疑問を感じるのは、利休に対して奉行衆が不満を持っていたということを示す一次史料があるのかということです。新聞記事には前述したように、奉行衆として三成の名も挙げられているのですが、三成が利休を快く思っていなかったことを示す一次史料は、私自身は把握していませんが、中村氏の「利休切腹 豊臣政権と茶の湯」(洋泉社)には、根拠となる史料が提示されているかもしれず、早急な結論は下せませんし、改めてそれを確かめる必要性を感じています。
 それはともかく、利休事件のきっかけとなったとされる大徳寺の木像事件の際、三成は上方におらず、東北で起こった一揆の鎮圧のために遠征していました。三成が上方に戻ってきた時には、利休の処分は決まっていたと思われます。また三成と大徳寺は親密な関係にあり、三成が利休事件に関与していたとする従来の説は、その点を全く無視しています。大徳寺の春屋宗園は三成の参禅の師であり、三成は宗園のために三玄院を建立しています。三成が大徳寺との関係は、利休事件の後も悪くなっておらず、関ヶ原の戦いの後、三成の遺骸を引き取って手厚く葬ったのは、宗園ら大徳寺の僧侶たちでした。また利休事件の前に催した利休の茶会に三成や兄の正澄らが招かれています(三成が東国に赴く直前)から、利休と三成の関係が悪かったとは考えられません。

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